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2021年07月29日12:27

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7月29日 本日の一言メッセージ

ぴかぴか(新しい)〈7/29(木)本日の一言メッセージ+動画+α〉

https://9001.teacup.com/sfk/bbs/22172 (写真入り記事)

ラブレター「一神教・多神教を超えて」

一神教、多神教、世界には様々な神観があります。

日本は、「八百万(やおよろず)の神々」という価値観が一般的で、一神教の「唯一神」に対するアレルギーを持つ人がいます。

世界的な視野で見ると、無宗教は少数派であると言われますが、日本では、宗教に入っていないことが中立で、無色透明であるように考える人がいます。

「一神教は独善的で恐く、多神教が『和をもって尊しとなす』でみんな仲良くするので良い」と考える人がいますが、本当でしょうか。

私は、「一神教か、多神教か」よりも、「どんな神を信じるか?」が大切だと思います。

「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と言われます。精神としてはいい感じがしますが、誰だかわからない存在を信じ、その存在にすがるというのはどうでしょう。

道端で歩いている恰幅が良くて、慈愛深そうな男性を見つけて、「こんな方がお父さんだといいな!」と考えて、「よし、この方を親父と思い込もう!」と念じても、その相手はお父さんではないし、相手も困ってしまうことでしょう。

産みの親と育ての親の二人を持つ人もいますが、自分を産んでくれた父親と母親は一人です。

同じように、神はお一方てす。

そのように考えるのは、独善的で恐いことでしょうか。

聖書は、「神は愛である」と教えます。

「その神がすべてを創造され、人間を造られた」というのです。

もし、その愛の神を信じたとしたら、不寛容で、排他的で、独善的になることがあるでしょうか。

もし神が、そのように、不寛容で、排他的で、独善的な存在だとしたら、とっくに人間を滅ぼし、世界を滅亡させているはずです。

しかし神は、一人子イエス・キリストをこの地上に送って下さり、不寛容で、排他的で、独善的で、自己中心な人間の罪を背負って死んで下さり、よみがえられて、救いを完成させて下さったのです。

ありのままの神を知り、その方を神として受け入れて、その方と共に生きるならば、この地球は天国のように変わります。

悪魔が、「そうさせまい!」と躍起になって、仲良くし、愛し合い、助け合うべき人間同士を仲違いさせているのです。

今日、悔い改めて、愛そのものであり、私たちを造られた神を信じませんか。

一神教か、多神教か、などという枠組みを超えて、無宗教、無神論の枠を超えて、すべての大元であり、すべての源であり、創造者である方に立ち返りたいものです。

「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)。

「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」(使徒の働き17:28)。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。


🧡【動画メッセージ】
「教会はキリストの花嫁」
https://youtu.be/iL5syZarvpU


ハート【御茶ノ水駅 路傍伝道】(前半)
https://youtu.be/vdKb3b45AVs (正面)
https://youtu.be/1bpiwxKmBgY (側面)


ハート(緑)【路傍伝道ネットワーク 活動紹介】
https://youtu.be/es7hBtd_OdY


ハート(紫)【新宿福興教会 オンライン主日礼拝】
https://youtu.be/cjurrCT8Xos (朝)
https://youtu.be/jaRSLglgd9U (夕方)


ハート(黄)【四十代最後のメッセージ】(7月限定公開)
「私たちに与えられた救いと人生の目的」
https://youtu.be/g0MnAtSKtxM


ハート(矢)「編集後記的メッセージ 『「神の御心」と「時」』」

聖書には、「神の御心」と共に、「神の時」というものが大切にされています。

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」(伝道者の書3:1)と始まり、「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者の書3:11)と締め括られています。

神の御心がはっきりしていたとしても、それを実行し、それが実現するのが今すぐではないことがあります。

だから聖書は、忍耐を教え、「主を待ち望め」と命じられるのです。

「時」という言葉には、ギリシャ語で「クロノス(Chronos)」と「カイロス(Kairos)」という2つの時があります。

「クロノス【Chronos】」は、時計が刻む時の事で、「カイロス【Kairos】」は、「その時歴史は動いた!」というように、連続性が重なって起こるタイミング、ティッピングポイントのことを言います。

聖書は、「クロノス【Chronos】」を、客観的時間として扱い、「カイロス【Kairos】」を、特定の定まった時、神の時として扱われます。

ですから、聖書が教える「時」には二種類ありますが、「時がある」の「時」は「カイロス【Kairos】」です。

ダビデは、サムエルから王としての油注ぎを受けましたが、すぐに他を押しのけるかのように、「今から私はこの国の王だ!」とは言わず、時が来るまで、羊飼いとして、今までと変わらない姿で生きました。ダビデは「カイロス【Kairos】」を知っていたから、その時が来るまで待ち続けたのです。

イエス様は、カナの婚礼で母マリヤに対して、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2:4)と突き放しました。

マリヤはイエスに、親子関係を持ち出して支配しようとしました。

公生涯がスタートした今は、「親子の関係」から、「信者とイエス(救い主)」の関係に変わっていたので、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方」と言って、突き放されたのです。

そして、「わたしの時はまだ来ていません」。つまり、「十字架につけられる時」の事です。イエス様が人々に渡され、支配される時は来ていない。

「あなたの態度は間違っている。婦人よ、あなたは私を支配するのではなく、私に従いなさい」と言われたのです。

イエス様は、公生涯の3年半の間に、繰り返し、「わたしの時はまだ来ていません」と語られましたが、「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」(ヨハネ13:1)と、その時が近いことを認識された瞬間を聖書は語ります。

その時が近づいたことを認識したイエス様は、ギアチェンジするかのように、十字架に向けての歩みを進めます。

イエス様は、十字架にかかって、全人類の罪の贖いをされるために生まれて来ました。しかし、33歳になるまでは、死ぬことはなかったし、死んではいけなかったのです。

また、ナザレの突き落としの崖から突き落とされそうになったり、石打にされそうになったこともあります。しかし、十字架につけられて死ななければ、旧約聖書の預言の完全な成就ではなくなるので、死に方においても定まっていました。

イエス様が十字架につけられて死なれることは「神の御心」として定まっていましたが、同時に、その時は「神の時」として定まっていて、その時でなければえなかったのです。

このことから言えることは、それが神の御心であるとしても、神が定められた時が来るまでは、例えば、結婚。神に用いられる時。そして、何からを行う時を焦らないで待つことが、私たちの人生において必要だということです。

祈りの中で、「神の御心を教えてください」と祈ると共に、「その時」に対しても神の導きを求める必要があります。

イエス様を信じた人は、救い主として信じた人は、誰でもクリスチャンです。必ず天国に入れます。

しかし、神によって天に召される日まではこの地上で歩まなくてはいけません。

最高の場所である天国に召される日まで、与えられた使命を果たしながら生きていきましょう。

今日も、そんな1日でありますように。
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