
〈7/8(木)本日の一言メッセージ+動画+α〉
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/22151 (写真入り記事)
❣「人は変われる!」
私は、常日頃、「人は変われる!」と語っています。
しかし、人はそう簡単に変わることはできません。
「人は変われる!」といおうのは、神様が人を変えてくださるという意味です。
今までのクリスチャン生活を通して体験して来たことです。
表面だけを変えるだけならば、役者のように演じれば良いのですから、難しくはありません。
聖書は、それを「偽善(ぎぜん)」と呼びます。
偽善とは、「演技、振りをする」という意味のラテン語の「ヒポクリシーズ」から派生した言葉です。
さらにさかのぼるならば、古代ギリシャ語の「演じる、振りをする」と同じ意味の言葉です。
「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、やもめたちの家を食いつぶしていながら、見えのために長い祈りをするからです。ですから、あなたがたは、人一倍ひどい罰を受けます」(マタイ23:14)。
「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです」(マタイ6:5)。
「断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです」(マタイ6:16)。
なぜ、人は善人を演じたがり、そして、演じるのでしょうか。
善人だと思われた方が、人からの評価を得られるし、得をするからです。
それが、単なる演技であるとしたら、人を騙す詐欺と何も変わりません。
急がなくても大丈夫です。イエス様を信じて、神と共に生きるならば、人は必ず変われるのです。
しかし、同時に覚えておかなければならないことは、人は簡単には変われないという事実です。
自分の力で自分を変えることは、不可能だからです。
前述のように、演じることはできても、人の本質部分を変えることは、鉄棒にぶら下がって懸垂(けんすい)をして、上に行こうとすることと似ています。また、自分の髪の毛を引っ張って、背を伸ばそうとするようなものです。
イエス様を通して神とつながるならば、木につながった枝のように、成長し、花を咲かせ、実を結ぶように、人は成長し、変われるのです。
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)。
そのためには、変わろうとするのではなく、変えていただくことを許可し、変えてくださる神に自分をゆだねることです。
神様は、一生という時間をかけて、私たちを造り変えてくださいます。
イエス様を信じることを後回しにしないで、まず第一に、イエス様を信じましょう。
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(伝道者の書12:1)。
「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(第二コリント6:2)。
素敵な1日でありますように。
🧡【動画メッセージ】
「渇いた心に潤いを」
https://youtu.be/HD69nEV68_0

【川口駅 路傍伝道】
https://youtu.be/gqC76mr3toA (後半)

【四十代最後のメッセージ】
「私たちに与えられた救いと人生の目的」
https://youtu.be/g0MnAtSKtxM

【新宿福興教会 オンライン主日礼拝】
https://youtu.be/6m2dGketg1Q

【TV番組 説教収録(限定公開)】
https://youtu.be/6Lli2UxiCwk(説教�◆�

【路傍伝道ネットワーク 活動紹介】
https://youtu.be/es7hBtd_OdY

「編集後記的メッセージ 『「変わりたいけれど変われない」という、しがらみからの解放』」
人が変わることが難しいのは、「変わりたい!」と願うと同時に、「変わりたくない!」と思っているからです。
昔、軽井沢で2人乗りの自転車に乗ってサイクリングをしたことを思い出します。
前に乗っている私はスピード狂で、後ろに乗った人は自転車に乗ることが怖い人です。その結果、私が一生懸命にペダルを漕いでいるのに、後ろに乗った人は、「怖い!怖い」と言ってブレーキをかけるのです。
これと似たことが、自分の中で起こっているのです。
「変わりたい!」と思う一方、「変わりたくない!」と思っているので、ある程度変わったと思いきや、元に戻ってしまうのです。
このからくりから解放されて、自由にならなくては、人は変われません。
「変わりたい!」と思う一方、「変わりたくない!」と思っている自分は、イエス様を信じた時に、イエス様と一緒に十字架につけられて死んでいる事実を受け入れることです。
「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」(ローマ6:3〜10)。
祖とパウロは、そして、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」(ローマ6:11)と締め括るのです。
「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者である」という事実を認め、受け入れてください。
そこから、「人は変わりたいけれど、変われない」というしがらみからの解放があり、「人は変われる」のです。
そして、変えられた分だけ幸せになり、祝福された人生を歩むことができるのです。
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