mixiユーザー(id:17713252)

2021年05月29日11:27

156 view

5月29日 本日の一言メッセージ

ぴかぴか(新しい)〈5/29(土)本日の一言メッセージ+動画+α〉

https://9001.teacup.com/sfk/bbs/22110 (本日の一言メッセージ)

❣「いつも本番」

リハーサルや予行練習の時はうまくいったのに、本番でうまくいかなかった経験はありませんか?

私はそのような経験を何度かしました。

本番で緊張しないように、「練習を本番、本番を練習」のように考えたためでした。

ステージで歌ったり、演奏する前のリハーサルを一生懸命におこなって、とても盛り上がるのに、本番では緊張感がなくなり、力が十分に発揮されないと残念だなと思います。

それ以来、「いつも本番!」と考えるようにしました。

牧師がやる仕事の多くは、人に向けられた活動ですが、すべて神に向かっての奉仕だと思っています。

歌や演奏のリハーサルも「神への賛美」で、講演の準備や練習も「神への祈り」です。練習も本番と同じ気持ちです。

そして、本番の時も、「神への賛美」と「神への祈り」です。だから「いつも本番!」です。

この考え方は、どんな仕事や分野にも応用できます。

ある人は、自分の仕事を「つまらないもの」と考えて、雑に行い「雑用」にしてしまいます。世の中に雑用など一つもないのに、雑に行うことで雑用にしてしまいます。

ある人は、人が見ている時だけ一生懸命に働いて、人がいなくなると手抜きをします。そのように仕事をしていると、ある時、怠けている姿を社長に見られてしまうものです。

人が見ていなくても一生懸命に働く人も、一生懸命に働いている姿を、誰かが、どこかで見ているものです。

不意に見られた姿こそが、「その人の本当の姿」として心に焼き付けられ、良くも悪くもその評判は瞬く間に広がって行くものです。

人生は、そんなに長くありません。「いつも本番」と考え、人が見ていても、見ていなくても、一生懸命に生きる。人に対してではなく、神に対して生きることです。

神を実在者と信じ、神と共に歩んでいるクリスチャンは、いつもでも、神に向かって一生懸命に仕事をします。一方、人が見ている時と、人目のないところでは全く違う生き方をする人がいます。

神は、人目に隠れたところで行う愛のワザを喜んで見ておられ、その人に素晴らしい仕事と祝福を与えられます。

「小さい事に忠実な人は大きいことにも忠実であり、小さい事に不忠実な人は大きい事にも不忠実です」(ルカ16:10) 。

「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ』」(マタイ25:21) 。

全ての事を神に向かって行い、いつも本番だと考えて生きましょう!

そんなあなたに、祝福が追いかけて来るはずです。

「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう」(詩篇23編6節) 。

素晴らしい一日でありますように。


🧡【動画メッセージ】
「本当の自分になる」
https://youtu.be/Gn50IlTmvFw


ハート(緑)【5/28(金)高田馬場駅 路傍伝道】(前半)
https://youtu.be/t7DAoq35FJE (正面)
https://youtu.be/bTnd2P6V9O8 (側面)


ハート(黄) 【路傍伝道新聞5月号(3500部発行)】
(まとめてダウンロードできます)
https://41.gigafile.nu/0726-b3bcd2a29212ccf873c867486779513f


ハート(紫)【新宿福興教会 (オンライン)ペンテコス記念礼拝】
https://youtu.be/nzMpgFOXpnY


ハート(矢)「編集後記的メッセージ 『友を得る秘訣』」

昨日の高田馬場駅路傍伝道の後に、マクドナルドのハンバーガーをテイクアウトして、縁石に腰かけて、みなさんで食事をしながら語り合いました。

ちょうど昨日、親しくなった獣医さんが、野外で新型コロナウイルスの感染拡大はまず起こり得ないという話を聞いたばかりでした。

もちろん、ソーシャルディスタンスを確保し、マスク装着、手洗いもしくは手指消毒も必要ですが、コロナ感染をあまり心配しないで食事ができたので、とても爽快でした。

ある参加者が、ヘルプマークの話から、「私も、障がい者なんですよね。役所の福祉課に行くと、子どもに語りかけるように、『大丈夫?』と聞かれるのが嫌なんですよね」と話しに発展しました。

知的障害者は昔から身近にいました。小学校・中学校の時に、特別支援学級があり、給食の時間などに交流がありました。

しかし、うつ病などの精神障がい者や発達障がい者は身近ではなく、牧師になってから身近になりました。当初は、その言動に腹が立つことがありましたが、後日、それが医学上でそう言われていることを知ってからは、腹が立たなくなりました。

それは、決して子ども扱いしたり、バカにしたり、見下したりしているのではなく、知ることであり、理解し、受け止めることにつながりました。

しかし、注意しないと、子ども扱いされている、バカにされている、見下されているように感じるということを聞いて、考えさせられました。

何か、「おや?」と感じることがあっても、それを大目に見ることはあっても、同じ人として考え、接し、関わることが大切だと思います。

ある人が、「菅野先生のまわりには、障がいを持つ人がたくさん集まって来ますね」と言ってくれたことがあります。私は、その言葉をうれしく思いました。

路傍伝道の活動に来られて、もちろん、ダメなことは「ダメです」と言うことはあっても、純粋に活動を喜び、笑顔を見ると、幸せを感じます。

イエス様が福音を語られた時には、取税人、遊女、罪人たちが集まりました。

問題がある人が多く集まってくれるとしたら、それは福音を語っている証拠だと思います。

もし「こうあるべき!」「こうしなくてはいけない!」と律法を語るならば、立派な人しか集まることができないからです。

もちろん、イエス様の元には、問題があるひとがたくさん集まりましたが、同時に、その人は変えられていき、最高の人生を生きられるようになっていきます。

イエス様は完全な神であり、完全な人ですが、私たち人間は、必ずどこかに足りない部分があります。人間関係は、足りない部分を学び合うことによって成長する場であり、欠けたところを補い合うことによって、補完し合い、仕え合い、充実感を持ち、幸せを感じられる場であると思います。

私は、小学校を1ヶ月遅れて入学しました。両方の肺が肺炎にかかり、2ヶ間ほど入院していたからです。同じスタートではないので、なかなか友だちができなくて寂しい思いをしていた時に、同じく友だちがいないI君が「ついて来い!」と言って遊んでくれました。彼も僕も友だちがいなかったので、仲良くなり、夢中になって遊びました。それが自信につながり、学校生活に溶け込み、成績もみるみる上がっていきました。

これだなと思います。友だちがいなくても、友だちがいない人を見つけて、友だちになってあげたら良いのです。人気があって、輪の中心にいるような人に媚びて、友だちになってもらおうとしなくてもいいのです。

路傍伝道には、立派な方がたくさん参加してくださいますし、時には、問題を抱えた人も参加してくださいます。路傍伝道は、働き人が集まる場ですが、仮に友だちがいなくて寂しいと感じている人が友だちを得て、仲良くなり、自信を持てるようになり、力を合わせて伝道をするのも素晴らしいと思っています。

昨日の野外マック(マクド)を通して、大切なことを考えさせられました。

この世界が、互いに友だちを得て、自信を得て、生きる力を見出せる場所であるといいですね。

「新聖歌99番」の「馬槽の中に」の一節に、「友なき者の 友となりて 心砕きし この人を見よ」という歌詞があります。

「友なき者の友となられる この人を見よ」の「この人を見よ」は、ラテン語の「エッケ・ホモ ( Ecce homo エッケ・ホモー)」です。

もしあなたに、友だちがいなくても、自分を繕ってまで、人気のあるあの人に友だちになってもらおうと無理をしなくても良いです。

「この人を見よ」「エッケ・ホモ ( Ecce homo エッケ・ホモー)」です。イエス様を見てください。この方が友だちになってくださいます。

そして、イエス様と共に、友なき者の友となって、友を得てください。

私とあなたも、友だちとして、引き続きよろしくお願いします。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年05月>
日 月 火 水 木 金 土
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031