前回の記事で、二宮尊徳の教えを遠州に広めた安居院庄七を自宅に招いた新村里助のことを書きました。 幼名金次郎といい、14歳で父を亡くし16歳で母を亡くして、幼い二人の弟たちを抱えて、身近に残されたのは空き家だけでした。親族は相談をして二人の弟は母親の在所に預けて、尊徳は近親の万兵衛の所に寄食させました。日夜農業に励み、さらに困難を極めました。尊徳は昼は家業に励み、夜は縄ないをしつつ、暇があれば読書・算数を学びました。(以上尊徳小伝)
嘉永五年(1853)森町を訪問していた庄七は病にかかってしまいます。豊作(新村利三郎の先代)は庄七の看病をしながら学び、報徳の教えについて大いに悟る所がありました。当時、豊作は貧困の中にありました。この苦難の中から抜け出すには報徳の道しかないと、報徳精神の実行に移り、やがて森町報徳社を結成し、初代社長となりました。安居院庄七の働きかけ、その死後は福山滝助の働きによって、遠州地域には多くの報徳社が結成されました
こうなると、共同研究・研修を便利にするために大きな集まりが結成されます。遠州報徳社・遠譲社・日本報徳社等が出来て、森町報徳社もこれに参加していましたが、明治28年(1895)二代目の社長新村里三郎の時、大日本社と意見の相違があって、同志とともに報本社を作り、報徳活動が続けられてきました。(現在は和解して大日本社の分派です)
森町の報徳社
30社余の報徳社が町内に結成されています。森町には報徳の信奉者・実践者が数多くいて森町気質を作っていると思われます。報徳と言えば忘れることができないのが鈴木藤三郎です。藤三郎は中町の菓子屋ですが、苦心の末に氷砂糖の製法を発明した人です。その後製糖会社を二つも作りました。生涯に159件もの専売特許を取得した発明家でした。
地元に農業高校の設立者の一人でもあり、後の周智農林高校となる私立農林学校を設立に
尽力しました。始め藤三郎は菓子屋に見切りをつけ茶商になりましたが、ある日報徳を知り、再び菓子屋に戻り、分度即ち自分の度合いを知ることとなり、それには家計を調べ予算生活が必要と、最低ぎりぎりの計画を立てて、余剰は推譲することにし、骨身を惜しまず働きました、その結果5年目には多くの利益を得ることが出来ました。氷砂糖の研究に費やす余地が生まれました。このことから二宮尊徳への追慕の念厚く後に書生20人程を雇い、三年間かけて尊徳関係の文書の整理、浄書に当たらせ報徳文庫を完成しました。この文庫は日光今市の二宮神社境内に書庫を建てて寄贈されています。尊徳研究の寄り処となっています。
森町の偉人たち
鈴木藤三郎氏以外の偉人を二、三挙げますと、まず福川泉吾氏を挙げなくてはならない
氏は泉忠様と呼ばれた福川家の次男に生まれたが、長男が亡くなって家を継ぎ、その商才は人並み優れ、大いに財を成した。しかし、それに驕らず世のため人のために働くことを
喜びとして、町のため、人の為に大いに尽くした。明治町・伏間道、周智農林学校・森小校舎、大洞院等。
村松吉平氏は屋号を角屋といい、茶商として外国貿易をなし、森町に茶業の進展の源を
作った人であり、また相良油田を掘った人でもあります。
山田七郎左衛門は、森に住んだ鋳物師で、駿遠両州の総大工職をした人で、遍照寺(飯田)の大佛他の作品が残っています。方広寺の鐘は七郎左衛門の指導で、弟の六郎左衛門
が作ったと言われます。 秋葉路や花橘も茶の香りの名文句で「森の茶」を全国に売り出したCMソングを作詞した方は、嶋 正雄氏です。この他にも次郎柿の発見・育成などをした下宿の山崎次郎氏。歌道・考古学者の新貝直陰氏、「遠淡海地誌」の山中豊平氏。「長歌詞の玉衣」を残した小国重年氏、「事実証談」の中村乘高氏。消防組合を県下に先駆けて作った田辺宇吉氏など枚挙に暇がない。
ログインしてコメントを確認・投稿する