松井先生の遺稿より
室町時代になりますと、武家は増す増すその力を伸ばしてまいります。森町周辺は三条
中納言の治める荘園でしたが、荘官の山内氏が勢力が増してきて、天方に城を築いてこの
地を治めました。当時は、今川家の息がかかっていました。また、横道にそれますが、今川氏の勢力が森町にまで及んでいたことは、永正三年(1506)伊勢新九郎(北条早雲。
今川氏の客人格の時)が三河攻めの時、天方氏が参加している。飯田に加わらなかったともある。山内道美の代に勢力を伸ばし、天方を出て飯田に城を築いている。天方城は弟に
守らせたと言われます。しかし、道美の孫の道泰の時、徳川に敗れ、天方は降伏し、飯田は一族が戦死して落城してしまいました。こうして、江戸時代につながり、森町は、天
領・横須賀領・掛川領・花房領・皆川領・土屋領などが入交っていますが、中でも森町・天宮・草ケ谷・中田・石川・粟倉・上河原・橘の各村は、土屋氏三千石の領地で、この土
屋氏の陣屋が西脇にあったことから陣屋峠の名が生まれています。この土屋家に仕えた家が残っています。中でも竹中家は祐筆をして江戸に居た頃、赤穂浪士の討ち入りが有った
ことで、その調書「元禄実記」が伝えられています。こうした武家の在り方が直接庶民にどれだけ影響したのかははっきりしませんが、庵山公園に大須賀様と呼ばれる祠がありま
すが、大須賀五郎左衛門を祀ると言われます。領主と民衆とつながりを思わせるものもあります。しかし、武家同志の争いで、多くの記録を兵火で失っています。中でも武田方の
兵火により蓮華寺の焼失、徳川勢による小國神社の消失等記録に残るもののほかにも数多くあったようです。
江戸期に入って一応庶民の生活も安定しますと、古来「塩の道」として相良=掛川=森=
奥山〜信州と海山交流の信州街道が、人々の生活を脅かす最大の災難である火災から逃れ
ようと、信心心が盛んとなって火防の神様秋葉神社詣でが盛んになりました。東海道掛川
から森=秋葉山への道は、秋葉街道と呼ばれ、森町は秋葉道者の宿場として栄えました。
町外の人々との付き合いの中で、古着の商品としての価値を知って、やがて森町は古着の
町として地位を確保しました。今も残っている旧家と呼ばれる家、既に家を引き払い他所
に移った家、土蔵が現存する家は殆どが古着商売をしていた家です。現代風に言えばリサ
イクル・ショップですね。当時は森町で取り扱われる古着は全国の古着の相場を左右して
森で市が立たぬ日は、市価が決まらないと言われたそうです。餅に集められた古着は、
太田川を船で下り福田で大船に載せられ、奥羽地方や関西以西にまで運ばれたそうです。
そして、遠州の富の七割は森町にあると言われるまでに栄えていた時期がありました。
こうした環境に育った森町の商売の気風、それは古着における全国的な地位が、すわっ
ていても人は欲しがるのだ、商売は出来るのだという姿を作ってしまったのではないだろ
うか?また、秋葉参道の宿場として「森の横町何故日がささぬ 秋葉道者の笠の影」と謳
われ殷賑は一見の客売らなくても買ってくれるものだ、売ってやるのだ。という気風すら
育ててしまったのではないかと思うのです。他所から見えた方が感じている暮らし難きさ
の一つがここにあるのではないでしょうか。がしかし、一面で遠い他国との商売に文字は
どうしても必要ですし、商売には計算(算盤)も欠かせません。教育の街としても遠州で
も有数の地であります。所謂、寺子屋も幕末には十指に余るほどで、遠方から森に学びに
来る子供も多かったのです。こうした気風は、県下には皆無だった屋内体操場を先駆けて
作ったり、私立農学校や、女史技芸学校を作り近隣かた羨まれたりと、優れた教育環境を
整えていったと思われます。江戸期に古着で築いた町の繁栄も、時代の波に洗われて明治
になると振るわず、人々がその生活の律し方に迷っている時に、二宮尊徳の教えをもって
案居院庄七という人が遠州に報徳の教えを持ち込みます。時がつきあいして新町の新村里
助という人が、報徳の教えの良さを聞き、嘉永五年庄七を自宅に招きました。(つづく)
ログインしてコメントを確認・投稿する