子弟の教育についても、遠州でも有数の熱心な土地柄でした。いわゆる寺子屋も幕末頃に
十指に余るほどで、遠方より学びに来る人も多かったようです。こうした気風は、県下に
どこにもない「屋内隊相場」を他所に先駆けて作ったり、私立農学校、女子技芸学校を作
うて近隣から羨まれるような教育環境を整えていったのです。
江戸時代に古着で築いた街の繁栄も、時代の波にもまれて明治になると振るわず人々は
その生活の律し方に戸惑うときに、二宮尊徳の教えをもって、安居院(アゴイン)庄七という
人が遠州に報徳の教えを持ち込みました。新町に住む新村里助という人が、報徳の教えの
良さを聞き、嘉永5年庄七を自宅に招きました。たまたま庄七は病にかかってしまいました。豊作(新村里三郎の先代)は庄七の看病をしながら、報徳の教えを学び、大いに悟る
宇尾頃がありました。その当時豊作は貧困の中にありました。この苦難から抜け出すには
報徳の道しかないと感じ、報徳精神の実践に移り、やがて森町報徳社を結成して、社長と
なりました。庄七の働きかけが、また庄七の死後は「福山滝助」の働きによって、遠州に
は非常に多くの報徳社が結成されました。
こうなってくると、共同研究や研修を便利にするために、大きな集団が結成されます。
遠州報徳社・遠譲社・日本報徳社などができて、森町報徳社もこれに参加していましたが、明治28年(1895)二代目の社長里三郎の時に、大日本社と意見が相違して、同志ともに報本社を作って報徳活動が続けられてきました。
<森町の報徳社>
第一分社(飯田地区)32社の分社が森町地域にありました。森町には報徳の信奉者が
数多くいて森町気質を作っています。報徳といえば、忘れることができないのが、鈴木
藤三郎です。氏は中町の菓子屋ですが、苦心の末「氷砂糖」の製法を発明した人で、
製糖会社を二つも作りました。生涯に159件の専売特許をとううあ発明家でもあります。
周智農林学校の創業者の一人でもあります。何よりも報徳の実践者であります。最初は
藤三郎は、菓子屋に見切りをつけて茶商になりました。しかし、ある日報徳を知り、再
び菓子屋に戻り、分度すなわち自分の度合いを知ることとなり、それには、家計を調べ
予算生活が必要と、最低ぎりぎりの計画を立て、余剰は推譲することにし、骨身を惜しまず働きました。その結果、5年目には多くの利益を得ることができ、氷砂糖の研究の余地が生まれたのです。このことから、二宮尊徳への追慕の念厚く、後に書生20人を雇い、
三年間かけて尊徳関係の文書の整理、浄書に当たらせて、報徳文庫を完成させました。
この分校は、日光今市の二宮神社の境内に書庫を建てて寄贈されています。尊徳研修の
拠り所となっています。
この他に森町が忘れることができない人は、まず、福川泉吾氏です。氏は福川家の次男
に生まれましたが、長男がなくなって、家督を継ぎ、その商才は人並み優れ、大いに財を
なした。しかし、それに驕らず世のため人のために働くことを喜びとして、街のため人の
ために大いに尽くしました。(続)
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