村本山雨楼著「遠州侠客伝」より。
山梨の巳之助は、森の五郎、堀越の藤左エ門、岩淵の坊主勝を子分に、四角山周吉・大和田
之友蔵を子分同様に従えて、寺島の都田源八を凌ぐ遠州の大親分だった。天保・弘化・嘉永・安政にかけて全盛を誇り、巳之助に睨まれたら、縄張りを持ちきれないといわれた。
「巳之助は山梨の下木戸に生まれて、そこに代々の家屋敷を持っていたが、袋井宿に住ん
でいた」
「森の五郎は、山梨の巳之助の子分で、遠州森町の下宿左側、馬方茶屋の傍らに住いを持ち近郷谷口には家屋敷もあって、相当裕福な上に他人の面倒をみることが好きだったので、{谷口の父っさん」と言われて評判のよい顔役だった。」
「弘化二年、巳之助は藤五郎なる者の首実験を行ったことから、代官の忌̪肆に触れて、
入牢申し付けられてしまった。四角山周吉は藤五郎殺害のことで呼び出されたが、下手人
は飽くまでも島左エ門だと言い張って放免された。」
「巳之助が入牢したからは、山梨の鉄火場は一の子分の森の五郎が預かって差配し、堀越
の藤エ門が見張って、貧乏揺るぎもしなかった。」
「首実験の罪でとえられた巳之助について、代官所でも色々と詮議してみたが、幕末の
仕置帳にはかなりの細目まで定めてあるが、首実験の罪を当てはめる条項がなく、
永い間牢内で窮命させただけで放免した。安政に入った頃に牢から出た巳之助は、袋井
宿から山梨の生家に移り住んだ。」
「森の五郎に「太市」という養子があった。伯楽上がりで頑丈な体躯と豪快な胆力を持
っていた。子分に八五郎という、年は若いが頼もしい人物も持っていた。それがこれま
で誰も賭場を開いたことのない山梨西の石川村に、定賭場を開いたところ、五郎の信頼
と太市の人気がものを言ったのか、いつも賑やかに繁盛した。巳之助も藤左エ門もこれ
が癪にさわってたまらなかった。そこへ幡鎌の番人の倅で髪結租師の周太郎が、近ごろ
甲州黒駒の勝蔵の子分、大岩・小岩と兄弟分の盃を交わして、大岩・小岩の暴力を背に
付近の縄張りを荒らしまわっていたときであるから・・・。」
「
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