名前「ムラマツ ショウフウ」本名 義一 明治22年(1889.9.21生〜昭和36年2.13)
周智郡飯田村(現在森町下飯田)に長男として生まれる。郷土飯田小学校を卒業
県立静岡中学校に学び、同校を優秀な成績で卒業、続いて慶応大学理財科予科に
進学したが、父親の急死により学業半ばで帰郷して、森小学校代用教員や私立
周智農林学校の教諭となるが、青雲の志止まず再び上京をして、慶応大学文学部
へ再入学する。同学部の教授であった永井荷風の影響を受けて文学に開眼。再び
退学をして、文筆の道に入る。雑誌・新聞の編集に従事。1917年(大正6年)に
「中央公論」に我が国初の中間読物「琴姫物語」を掲載。文壇に注目を浴び名声
を得る。続いて同誌に「談話売買業者」を発表。1924年(大正13年)に中国に
渡り、以来多くの中国物を記す。その後もたびたび中国の各地を旅し、13回に及ぶ。
大正15年「騒人社」を輿し、雑誌「騒人」を発行。1926年4月から同誌に連載した
「正伝清水次郎長」は、静岡県民にも馴染み深い。故郷の森の五郎や森の石松も
描かれて、また 静岡美女伝」がある。1931年(昭和6年)には、「人間飢饉」を、1940
年から1943年に「本朝画人伝」を著した。この作品は、光琳や一蝶、大観。玉堂に至
る読物的伝記の集大成で、世評も良く代表作となった。他の作品では、「残菊物語」、
「女経」「新女経」「近世名勝負物語」等が知られている。彼の作風の特色は、大衆文
学よりやや考証的伝記風なものを取り入れ、実話の興味で読者の嗜好に投じた点である。
囲碁や将棋にも明るく多くの観戦記については草分け的な存在である。また、直木賞作
家の村松友視は孫にあたる。
参考文献・・静岡大百科事典・しずおか辞典発見伝(静岡新聞社発行)
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