美濃国恵那郡岩村城主は、加藤氏直系の末裔である遠山氏の宗家だった。
遠山氏は分家を立てて割拠し、東濃から信州木曾地域にまで影響力をもった。
そのため美濃守護職の影響下にありながら、信濃の国衆とも関係があった。
しかし戦国時代も後期になり美濃守護が零落したころ、遠山氏は美濃衆・織田氏・武田氏と接することになった。
なお岩村城は「霧ヶ城」ともいう。
岩村城主の後家として、一般的に「おつやの方」と呼ばれる女性がいた。
この名前の出所は不明で、『日本歴史地名大系』のような大著にも採用されているが、実のところはわからない。
彼女を有名にしたのは、「織田氏の出身でありながら敵将に降ってその妻となり、預かっていた信長の実子を武田氏に差し出した」という異色な逸話が知られたからである。
そののち武田氏勢力が後退する中、岩村城は織田軍に敗れ、彼女は夫とともに斬られるという末路をたどった。
今回はこの、「敵将に降ってその妻となり」の部分について考えてみたい。
◆ ◆ ◆
元亀3年(1572年)10月、武田信玄は大軍を発して徳川家康の本拠地である遠江へと侵攻した。
このころ遠山氏は武田氏に人質を送っていたが、城主兄弟が相次いで病没しており、岩村城主は空白となっていた。
同月、当時武田軍が岩村城を攻めたが、遠山軍によって撃退された。遠山氏が武田氏から離脱したのだろう。
そこに信長は織田信広と河尻秀隆を派遣して岩村城に駐在させた。これによって遠山氏は織田方に手に帰したという。(『歴代古案』上杉謙信書状)
しかし11月14日には岩村城は武田軍により開城した。(『古今消息集』武田信玄書状)
『当代記』によると、10月に信玄は徳川軍攪乱のため、本隊とは別に山県昌景と秋山虎繁を三河の菅沼領に侵入させて服属させ、次いで遠江に侵出させている。
同じころ、岩村城が信玄に降伏した。それを陣中で知った信玄は、山県・秋山隊に属していた下条伊豆守を岩村城に派遣している。
『松平記』によると、このころ岩村城主が死去していた。そのため秋山虎繁が岩村城を攻撃し、これを調略・和睦して城を接収したという。
故岩村城主は信長の伯母婿で、信長の子・御坊丸を養子としていた。なおこの養子縁組を永禄3年の事としているが、さすがに早すぎるだろう。
秋山は岩村夫人を篭絡し、自分の妻として御坊丸を武田方へと送還した。御坊丸が織田方へ返されたのは、勝頼の代になってからだった。
秋山は後に敗れて磔になり、岩村夫人も斬られたとある。
『三河物語』の内容は『松平記』を簡素にしたようなものだが、これを勝頼の時代のこととして書かれている。
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次に『甲陽軍鑑』を見てみる。
信玄の出陣に際し先鋒として選ばれたのは、山県昌景・内藤昌豊・小山田信茂・小幡信貞・真田信綱・高坂昌信・馬場信春の7人。
秋山虎繁の部隊は信州伊那郡の留守居として配置された。虎繁本人はどうだろうか。
なお『当代記』に記述のある下条伊豆守は足助城に在城した。
10月中旬、山県昌景は伊那へ入り、東三河へ侵出。信玄本隊も同じころに甲府を出陣し、それを聞いた山県もまた遠州へ侵入した。
翌天正元年2月下旬、病を得ていた信玄が回復した。
織田掃部の斡旋で、秋山虎繁と岩村夫人の祝言が行われたという。
その後、織田掃部の手によって御坊丸は甲府へと送られ、織田氏との間は停戦になったという。
一方で以下のような記事もある。
3月15日、武田軍は岩村城を攻撃した。信長もそれに応じて後詰めに出陣した。
武田軍の主将は馬場信房で、織田軍を撃退。岩村城は落城、降伏した。
戦後、秋山虎繁が岩村城に入城する。
足助城にいた秋山虎繁与力の下条伊豆守もまた岩村城に入城した。
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最後に『霧ヶ城記』を見てみる。
この資料は無名だが、これは遠山氏支流の苗木家に伝わった史料である。内容は誤りも多く、写本には注記も多い。
岩村侵攻に際し、武田軍はまず周囲の支城を落として岩村城を包囲した。
織田軍は遠山領へ援軍を出したものの、武田軍の抑えによって近づくことができない。
しかし岩村城も山城であるうえ霧も深く、武田軍も攻めあぐねた。
そこで主将の秋山虎繁は、岩村夫人へ大船寺(現・大船神社)の僧侶を使者として送った。
秋山は織田軍の援兵がこないことをほのめかし、岩村夫人に降伏を提案する。すなわち夫人を自分の妻とし、その子を自分の養子として、成人後に城を譲るという。
夫人はこれを承諾し、武田軍を入城させたのだった。このとき反武田の遠山家臣を掃討している。
その後、秋山は1年ほど岩村城にいたが、慣れ親しんだころに養子に迎えていた夫人の子を殺害してしまった。
これを聞いた織田軍は岩村城を攻撃するが、落城しない。
そこで信長は武田勝頼の援兵がないことで秋山虎繁を揺さぶり、和睦を取り付けた。
信長と秋山は対面することになったが、信長は伏兵をもって秋山を捕らえた。
岩村夫人も拘束され、すぐさま磔になったのだという。天正3年12月のことという。
◆ ◆ ◆
岩村夫人を織田信長の叔母とするのは、彼女の記載がある史料のすべてに一致している。
しかしその婚家である遠山氏については、多少の異動がみられる。
1)夫の名は遠山景任(左衛門尉、大和守、掃部助、修理亮)。しかし景任は岩村落城までに病死している。この説が最も多い。
・元亀2年12月3日没説(『美濃国諸旧家系譜』<名は友通>)
・元亀3年12月没説(『系図纂要』『松平記』)
・元亀3年8月14日没説(『遠山氏系図』<遠山家文書>)
2)夫の名は遠山景前(左衛門尉)とする。元亀3年8月14日に没した景任は景前の子(『遠山家之譜』<遠山家文書>)
3)夫の名は遠山頼景(左衛門尉)。天正初年に没。岩村夫人との間には子があったが、落城後に秋山虎繁に5歳で殺害される(『霞ヶ城記』)
没月日だが、『歴代古案』所収の10月18日付け上杉謙信書状によれば、この時点で「遠山兄弟」が病死している。これが遠山景任を指すとしたら、12月没はありえない。
夫の名を「左衛門尉頼景」とする説だが、この人物は『美濃国諸家系譜』では通説の景任(同史料では友通)の叔父として名が見えるが、岩村城主との記述はない。
岩村夫人に子がいたとする説だが、他には見られないものである。また同史料では岩村城にいたとされる御坊丸の名がみられない。
また遠山景任の父を岩村夫人の夫とする説もあるが、こちらも他には見られない。
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多くの史料では秋山虎繁と岩村夫人の婚姻は、岩村城争奪の結果「裏切り」として語られる。(『松平記』『三河物語』『美濃国諸旧記』『霧ヶ城記』)
一方で『甲陽軍鑑』では少し違った経緯が語らている。
岩村夫人と秋山の婚姻は天正元年2月下旬であり、「織田掃部肝煎をもって祝言」があったとする。
織田掃部は言うまでもなく織田方の人である。武田氏との外交を担当していた。
この婚姻について信玄は「うはげ(上辺)はしらざる様」だったようだが、実際は家臣たちの報告によって「御存知」だった。「信長そこゐ(底意)は存ぜられ」ていたというから、織田方の工作だったのだろうか。
※『武田三代軍記』では、「うはげ〜」の主語が信長になっている。この場合は「織田の配下が勝手に武田方と婚姻を結んだが、信長は見て見ぬふりをした」ということになる。こちらの方が理解はしやすい。
その後、織田掃部は御坊丸を連れて「甲府へ同道仕り、信玄公へ進上」したという。ただし信玄は甲府へは帰還せずに死去していることに留意する必要がある。
御坊丸が証人として武田方に送られたため、「信長とは御無事の様」になったとしている。(品第卅九)
しかし信玄は3月になると「東美濃御働き」を企て、「信長おさへのため」に岩村城に秋山虎繁を置くことにした。
戦闘は3月15日の昼前ころに始まった。
織田軍は1万の援軍を送ったものの撃退され、岩村城は落城し、地侍の多くも武田軍に降参した。
岩村城に詰めていた織田家臣たちも斬られ、後には秋山が置かれることになったという。(品第卅九)
信玄の死、長篠の戦いを経た天正3年12月、岩村城は織田軍の攻囲に遭っていた。武田勝頼の援軍は信濃で足止めとなった。
信長は城内へと和睦の使者を送り、秋山は「伯母むこなれば」助命すると約束したものの、それを信じた秋山は信長に騙されて磔刑となった。
そして岩村夫人も「強敵の家老伯耆守妻になりたる故」に斬られてしまった(品第五十三)
婚姻は織田方が進めたとのことだったが、岩村城は結局武田方につくことを選択した。
天正3年に岩村夫人が処刑されたのはその報復だったのだろうか。
岩村夫人は信長の伯母であるからそれなりの壮年であったことが想像できる。城中への発言力は保持していたのだろう。そうでなければこの処刑はあまりにも理不尽といえよう。
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なおそもそも岩村城は織田家から妻を迎えながら、武田方に人質を送るという処世を行っていた。
織田と武田に通交があったから成り立つ関係ではあったが、両者は次第に険悪となっていく。
岩村城は織田領との境目として武田氏に目を付けられた。
しかし城主兄弟が死去するという不慮の事態が起きたため、織田方が岩村城を占拠するというクーデターが発生する。
しかしほどなく武田方の反撃により、岩村城は武田方に降伏することになった。
以上が元亀3年の史実の流れである。
『甲陽軍鑑』では岩村城の落城と秋山と岩村夫人の婚姻は、翌天正元年のこととしている。
『松平記』など、落城・婚姻を元亀3年とする軍記は他に存在しているとはいえ、果たして岩村夫人の逸話は史実として認められるのだろうか。
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