「苦手な人も好きな人も、いつでもどこにでもいる!」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/21202 (写真入り記事)
世の中にはいろいろな法則があります。その中で、科学的かと聞かれたら微妙ですが、「苦手な人はいつでもどこにでもいる法則」があると思います。
誰にでも、何人かは苦手な人がいるものだと思います。
ある人は考えました。「自分の周りから苦手な人を排除しよう!」
グループから、苦手な人を追い出しました。
「これからは天国のように楽しくなるはず!」と期待しました。
しかしどうでしょう。今まで「良い!」と思っていた人が、いつの間にか苦手なタイプに変身していました。
また嫌な人を追い出しました。
またまた、「良い!」と思っていた人が苦手な人に変身していました。
「らっきょの皮むき」のように、追い出しても追い出しても、苦手な人がいなくなるどころか、「良い!」と思っていた人が苦手な人に変身し、気がついたら友達がいなくなり、ついに追い出す必要もなくなったことは想像に難しくありません。
私は、1971年生まれなので、ニュースで知っているだけですが、1971年から1972年にかけて活動し、「あさま山荘事件」や「山岳ベース事件」などを起した「連合赤軍」を思い出します。
連合赤軍は、警察の捜査網から逃れるため、山の中に「山岳ベース」と呼ばれる山小屋を建設して潜伏している時、「総括」と称して、連合赤軍内部での「粛清」が行われました。粛清は集団リンチという形で、12名もの仲間を殺害しました。
連合赤軍の粛清は、「こいつさえいなければ、本物の革命団体になる!」と考えて、集団リンチをしたのでしょう。
しかし、そうすると、「理想的な仲間!」と思っていた人が、「ダメな奴!」に見えて来て、12名もの仲間を殺すに至ってしまったのでしょう。
私は、誰でも、どんな組織、どんな集団の中にも、苦手な人がいるものだと思います。
その時に、「苦手な人を排除する」のではなく、「苦手と思う愛の無い心を排除する」ことが懸命だと思います。
掘り下げてみると、人を見て、「嫌な奴!」と思う時には、自分の中にある嫌な部分を相手の中に見ているのです。
「あいつはうるさい!」「おしゃべりだ!」「口が軽い!」と言っていた人が、違う場面では誰よりもおしゃべりだったりするのです。
相手の中に許せない部分を見つけたとしたら、「自分にも同じ性質があるかも知れない!?」と考え吟味するゆとりを持っても良いのではないかと思います。
自分の中に、苦手な相手と同じ性質を見つけ出したら、その自分自身が神から愛され受け入れられていることを知るならば、相手を手放しで裁けなくなるはずです。
神の愛が人をいやし、人を成長させます。
相手に注意するとしても、自分と向き合って、自分にも同じものがあり、その自分が神から許されていると知ったら、その言葉は謙遜であり、優しく、上から目線ではないので、相手の心に素直に入っていきます。
聖書には、「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:1〜5)と書かれています。
苦手な人はいつどこにでもいるものだと話してきましたが、その時、自分の心の問題を解決したいものです。
自分の中の嫌な部分を含めて、丸ごと神の愛が注がれていることを自覚するならば、嫌いだった自分が好きになることも珍しくはありません。
そうしたら、好きになった自分と同じものを持った相手への見方が変わります。
「苦手な人がいつどこにでもいる法則」が、「好きな人がいつどこにでもいる法則」に変わったら幸せですね。
あなたに神の愛が注がれています。その愛に気づき、味わえますように。
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