「時が良くても悪くても」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/21064 (写真入り記事)
聖書の論調は、どんな時にも変わらない生き方をすすめます。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」(テモテへの手紙 第二 4章2〜5節)
牧師になる前は、みことばを伝えるのに悪い時があるとは想像もしていませんでした。聖霊に満たされて、力と愛に満ちているなら、いつでもみことばを伝えるのに良い時だと思っていました。
しかし、そうではないことがあることを知りました。
この後、みなさんの前で聖書を語るのに、最悪な気分になることがないわけではありません。
伝道をする時に、とても笑顔で伝道できない状況の時もあります。
「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」という聖句に支えられ、励まされています。
「寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」と聖書は語ります。
寛容を尽くしながらも、絶えず教え、責め、戒め、勧めるということは、優しいことではありません。
それで人間関係が壊れることもあるからです。
その結果、関係が壊れたとしても、それは仕方がないことであり、不思議と神から来る喜びと平安があります。
牧師は、孤独な仕事です。
「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」とあるように、愛を持って聖書を真っ直ぐに語る牧師よりも、自分に都合の良いことを言ってくれる牧師を探し求め、真理から耳を背ける人が必ずいるからです。
教会を定めず、転々とする人もいます。
それは自由なようで、実は、自分の居場所がなくて寂しいあり方です。
聖書を真っ直ぐに語る時に、その人が神を求めて神に仕えて生きているのか、神を利用して自分の利益に仕えて生きているのかがはっきり見えます。
寛容を尽くして導くのは人間業ではありません。
聖書は、「あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」と語ります。
私は、今日の話しを、牧師だけの話しではなく、すべての人に適用されるべき話だと思います。
理想と現実のギャップに直面した時、理想を追求したらどうなるでしょう。
結婚関係において、理想と現実のギャップにぶつかる人がほとんどではないかと思います。
その時、理想を追求しながらも、現実を受け入れなくてはいけません。そうでなければ、関係が破綻し、離婚せざるを得なくなるからです。
どんな状況の中にあっても、理想を手放してはいけません。しかし、現実を受け入れなくてはいけません。
その緊張関係の中で生きていくのが、私たちのあるべき姿です。
「寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」と、理想を追い求めながらも、現実を受け入れ、許し、愛していきましょう。
理想を捨てたら、自己満足の世界に入り、成長は止まります。
神様は、私たちを愛しています。今のままの状態を許して下さっています。しかし、同時に、私たちが成長することを願っておられます。
時が良くても悪くても、神が命じ、導かれる人生を追い求めながらも歩んでいきましょう。
しかし、同時に、「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」(ピリピ人への手紙 3章16節)とあるように、現実を受け止め、受け入れる寛容さを忘れてはいけません。
時が良くても悪くても、素敵な人生を生きて参りましょう。
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