「素直に生きる人生」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/19986 〈写真入り記事〉
聖書は、人をマインドコントロールする書物ではありません。
神からのラブレターであり、救いに至る道と、救われた人がどのように生きていったら良いかを教えます。
「信じる者は救われる」と聖書が教えると、大きく分けて 3 種類の反応があります。
� 屬修鵑覆里�かしい!」
�◆屬覆漆�じないと救ってくれないのか!?」
��「信じます!」
�,痢屬修鵑覆里�かしい!」というのは、常識的な考え方です。
「奥さん(社長)、うまい話ありまっせ!」と、いって来る人がいたら、警戒した方が良いでしょう?
世の中に、うまい話などありません。仮にあったとしても、条件付であったり、何か裏があります。
大手の電気屋でノートパソコンが破格で買えると表記されていました。
話を聞いてみると、「インターネットを 2 年以上契約しなければならない」という条件付でした。
ノートパソコンが破格で買えるというのは、嘘ではありませんが、条件付です。
うまい話には裏があるのです。
だから、「信じる者は救われる!」といわれて、「何か裏があるのではないか!?」と考えるのは、常識的な考え方です。
そして、この世界では、「何かを得るためには、それと同等の対価が必要」なのは当たり前です。
だから、「信じる者は救われる」というのは、「そんなの申し訳なくて受け取れません!」あるいは、「そんなのおかしい!」というのが自然な考え方です。
しかし、神は別格です。
神は、無条件で、一方的に与える恵みによって救って下さいます。
次に�△痢◆屬覆漆�じないと救ってくれないのか!?」と反応する人がいます。
「信じること」は、条件でしょうか?
もちろん、「こちらが頼んだわけではないので、何もいわずに救ってくれたらいい!」と考えるのも自然な考え方です。
しかし神は、「あなたを救ってやった!」と恩を着せたいのではありません。
神は人を造られた創造者です。人に自由意志を与えられた以上、人の意思を尊重されます。
カルト宗教のマインドコントロールは、その自由意志を奪う行為です。
神は、「私を救って下さい!」というのを待っておられるのです。
神は、あなたを一個人として見ておられ、あなたの意思を尊重しておられるのです。
「なぜ信じないと救ってくれないのか!?」と文句をいう人には、「あなたは無理やり何かをされてうれしいですか?」と聞いてみたいです。
願わくは、��の「信じます!」と感謝の心で受け止めたいものです。
これは、神を神と認めることなのです。
人が神に注文をつけたり、ケチをつけるということは、神より自分を高くしていることなのです。
聖書は、「だれでも自分を高くする者は低くされ、 自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ 18 章 14 節)と語ります。
ある人は、自分自身を造られた神を信じるのではなく、人間が石や木で作った神を拝みます。
多くの人は、神に仕えるのではなく、自分が主導権を持ち、自分が願う神を作り、その神を祭り上げて、願いを聞いてもらおうとしています。
聖書は次のように語ります。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在している のです。」(使徒の働き 17 章 24 節〜 28 節)
人が悩み、心配し、苦しむ理由は、神の実力がないのに、神になろうとするからです。
人は神ではありません。神に造られた存在です。
神から愛され、その受けた愛で神を愛し、人間同士が互いに愛し合うために造られ、生まれて来たのです。
自分が神であろうとすることをやめて、自分を超える存在がおられることを認め、信じましょう。
最初、神は、先祖のアダムとエバを造られました。
すべてのことを許されましたが、たった一つだけ禁止されたことがありました。
善悪の知識の木の実を食べることです。
これは、神を象徴する木の実を食べることで、自分を神とするということだからです。
神を神と認め、神と共に歩むなら、何をしても良かったのです。
しかし、人は、そのたった一つの法律を破ってしまいました。
その背後にいた悪魔が、アダムの奥さんのエバを誘惑し、エバは夫のアダムを誘惑しました。
神との関係が切られました。
その瞬間、死が入りました。
�〆�から切られた花束のように、人の死は時間の問題です。
�⊃世箸隆愀犬�切れたので、力がなくなり、人を愛する愛がなくなり、希望がなくなりました。体は生きていても、生きた屍(しかばね)です。
神は、人を楽園から追放しました。
ノアの洪水によって、全地は水浸しになり、全地は滅ぼされました。
それ以降、神がこの地に宿る場所がなくなりました。
しかし神は、全人類の中からアブラハムを選び、アブラハム子孫からイスラエル民族を生み出しました。
神は、イスラエル民族の中からレビ族が選ばれ、レビ族の中からアロンの家系を選び、アロンの家系からアロンを選ばれました。
神は、人に幕屋を作るように命じられました。
大祭司アロンは、全人類を代表して、一年に一度、幕屋の中心にある至聖所で、 神の栄光と対面しました。そのようにして、神との関係が保たれました。
ポイントは、神のいわれた通りに信じ、従って、幕屋を作ったという点です。
神のいわれた通りに従った時に、神と出会えるのです。
今日の私たちには、神は何といわれているでしょうか?
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネ 14 章 6 節)
神がいわれたのは、自動的に救うではないし、「いわしの頭も信心から」といわれるように、「信心さえあれば救われる」ともいいませんでした。
昔は、神がいわれたとおりの形の幕屋を作るなら、幕屋を通して神と出会おうといわれました。
今は、私の一人子イエスによって、私はあなたと出会おう。聖霊を与え、あなたと共にいよう、といわれるのです。
神のいわれる通りというのは、排他的なのではありません。
人間と神の関係は、完全に遮断され、この地が滅ぼされたことによって、この地に神が宿ることができなくなった今は、昔、幕屋を通して神が人と出会って下さったように、神が遣わされたイエス様を通してのみ、神と出会える道が与えられたのです。
「はい、信じます」と、神がいわれたとおりに、感謝してこたえていきたいものです。
私たち人間は神ではありません。神より少し低く造られたのです。
素直に神に従っていきましょう。
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