「どこ行ったら渇きが満たされるか?」
「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2019/5/29(水)【1492】」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/19978 〈写真入り記事〉
すべての人が心に渇きを持っているものではないでしょうか。
しかし、その渇きを満たせるのは神だけなのです。
車のガソリンが空になったら、ガソリンスタンドに行って給油するように、神の元に行って心を満たしていただけたら良いのです。
神以外で心を満たそうとすることは、車のガソリンに代わるものを他に捜し求めているようなものです。
スーパーに行って、サラダ油、ごま油、オリーブ油を買って車に注油しても、ガソリンではないので車はちゃんと走ってくれないし、壊れてしまいます。
神以外のもので心を満たそうとすることを罪と言います。
罪の結果、人に死が入ったのです。健康を失い病気が入りました。愛が無くなって争いが入りました。
力がないので、権力を求め、権力にしがみついています。
お金を手に入れ、お金にしがみついています。
人の愛を求め、傷つき、憎しみ、争っています。
川崎の登戸で起こった殺人事件は、何らかの理由で傷つき、ボロボロになり、自分や人、社会に対して憎しみを抱くようになり、あのような事件を起こしてしまったのではないかと思います。
人が心のそこから求めているのは、変わることのない愛なのではないでしょうか?
その愛は、どこに行ったら受けられるでしょうか。
まず、家族の愛はどうでしょうか。家族の愛は、血縁関係にあるという限定的な愛です。
次に、友達の愛はどうでしょうか。友達の愛も限定的です。相手に気に入られようと努力しても、得られるとは限りませんし、その関係は変わる可能性があります。
男女の愛はどうでしょうか。これも限定的です。
もし、この3つの愛しかないとしたら、何と不平等で理不尽なのでしょうか。
しかし、そうではありません。
神の愛があります。神の愛は、無条件であり、一方的に与える愛であり、永遠に変わらない愛です。
神を信じ、神の元に行って、この神の愛を受けることが唯一の心を満たす方法です。
車でガソリンスタンドに行って、ガソリンを給油するようなものです。
人は弱く、足りない存在です。神がいなければ、人は不完全なのです。
だから、人に愛を求めることをしないで、神に愛を求めて下さい。そして、神から頂いた愛で、人を愛しましょう。
イエス様は、愛をギブ&テイクとして教えませんでした。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と教えられました。
両者に向かって、「ただ愛しなさい」とだけ教えられたのです。
ある時、一人のクリスチャンの人が来て、「聖書には、『互いに愛し合いなさい』と書かれているのですから、私を愛して下さい」と言われました。
ごもっともな言葉ですが、それは曲解であり、詭弁です。
それは、まず神からの愛を受けて、その愛で愛しなさいなのです。人から愛されなさい。人に愛を求めなさい、ではないのです。
その人は、「教会には愛がない」と言いました。それは、間違っていません。
しかし、その前に、自分自身に愛がないことに気づかなくてはいけないのです。
「愛がない!」と言って裁いているのですから。
どこに行ったら渇きが満たされるでしょうか?
神の元です。そして、神の愛を受けて、互いに、ただ愛することを求めていきましょう。
そこに、人々が願って止まない愛を受け取ることが出来、社会が変わって行くのです。
神からの愛を受けて、心満たされて、愛を分かち合っていける人になれますように。
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