パウサニアスの汚名と刑事訴訟法のたいせつさ 弁護士 岡本哲
パウサニアスの汚名と刑事訴訟法のたいせつさ
( もともとは2018年1月に書いたものに7月に加筆)
弁護士 岡本哲
紀元前8世紀から4世紀にかけてギリシアは地中海文明の先進地域であった。
ペロポネソス半島は、海と山が近く、耕地にめぐまれず、海上交通以外が困難な地域のため小都市が分立する状態にあった。そのなかで民主政のアテネと寡頭制のスパルタがそれぞれの政体の代表格であった。オリエント(東方)が王政でありに対してオチデント(西方)は共和政であった。
ギリシアと東方のペルシアが激突するのは紀元前491年以降である。紀元前490年の第1次ペルシア戦役では、マラソンの語源ともなったマラトンの戦いでギリシア連合軍がペルシアに勝利する。
紀元前480年にはじまる第2次ペルシア戦役では、テルモピュレーの戦いではスパルタ王レオニダス率いる300の部隊が玉砕、アテネがペルシアに占拠される、という大ピンチにギリシアは陥る。サラミスの海戦、翌紀元前479年のプラテーエーの戦いで勝利して、ギリシアはペルシアを撃退する。
スパルタは王が2名併存し(ディアルキア)、監督官のエフォロス5名が常に王を監視する。エフォロスは一兵卒の資格しかない司令官の経験のない5人が合議でおこなう。エフェロスは、大局観がないのに使命感があり、塩野七生「ギリシア人の物語�機弯慶�社・2015年では、猜疑心に使命感がプラスして小人閑居して不善をなす、と評している。とにもかくにも祖先法を重視せず、青少年に悪影響を与えかねない英雄を排除したいという使命感があった。
パウサニアス(ギリシャ文字表記:Παυσάνιας、ラテン文字転記:Pausanias、? - 紀元前470年)は、スパルタの王族、将軍である。
紀元前479年、パウサニアスはギリシア連合軍を率いて第二次ペルシア戦争のプラタイア(プレテーエー)の戦いでマルドニオス率いるペルシア軍を破った。
翌年、パウサニアスはビュザンティオン(現在のコンスタンチノープル)を落とし、ビュザンティオンをペルシアの勢力圏から切り離した(ビュザンティオン包囲戦)。
第一の容疑
戦いの後、パウサニアスは本国スパルタに召喚される。独断的な振る舞いに戒告を受ける。この時彼はスパルタには帰らずにトロイア地方のコロナイに居を定めた。スパルタはビザンティオンにパウサニアウに変わる将軍をおくったが統治に失敗した。
第二の容疑、
紀元前471年にパウサニアスはペルシアとの内通があったことが発覚し、スパルタ当局に逮捕されそうになった。
Wikipedeaでは、
パウサニアスは戦いで捕えたペルシア王クセルクセス1世の親族を脱獄したと見せかけて密かに送り返し、それと同時にペルシア王に書状を送ったとされる。その中で彼は、クセルクセス1世の娘を娶って婚姻関係を結びたいと申し出、そうすればギリシアをペルシアの支配下に置くと約束し、ついてはそのためにペルシア王に忠実な臣下を小アジア沿岸に派遣するよう求めた。これに対してペルシア王はアルタバゾスを送り、ダスキュレイオン(ヘレスポントス・フリュギア)の太守とした。しかし、この目論見は露見し、身の危険を感じた彼は先んじて神殿に逃げ込み、難を逃れようとした。そこで監督官たちは神殿にパウサニアスを閉じ込め、餓死させようとした。後になって彼が運び出された時には既に虫の息であり、すぐに死んだ。
となっている。ツキディデスの「戦記」によったものであろう。
しかし、2300年のにちにこの手紙は偽物であると看破される。
20世紀のドイツの学者が疑問をとなえたのである。
1 内容の不自然さ ペルシア相手の攻防戦が終わったばかりのビゼンティオンの街にどうやってペルシアの政府高官がくることができるのか
2 時系列があわない
ペルシア王クセルクセスはビザンティオン攻略した時点で首都スーサにいる。スーサとサルディスの間は当時は2カ月の距離である。信書往復に6カ月かかるが、その時間的余裕はパウサニアスにはない。
21世紀現在ではパウサニアス冤罪説のほうが通説になっている。
ちゃんとした弁護人がついていないこと、証拠へのアクセスが保障されていないこと、証人に対する反対尋問権がみとめられていないこと、裁判官役の素質の疑問、からの冤罪であるが、現在の刑事訴訟を担うものとしてちゃんとした権利の実現にくみしなければならない
ログインしてコメントを確認・投稿する