「人生のコペルニクス的転回 〜何を誇るべきか?〜」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/3/28(水)【1074】)
http://9001.teacup.com/sfk/bbs/18691 (写真入り記事)
「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(第二コリント11章30節)
使徒パウロは、もし自分に関して誇る必要があるなら、弱さを誇ると言いました。
世の中広しと言えども、「私は弱さを誇る」と言う人がいるでしょうか?
自分の強み、実績、長所などを誇るのが普通です。
クリスチャンでも、このパウロの言葉を読んで、「私は私の弱さを誇ります」と、ポーズとして口では言えたとしても、心からそう思える人がいるでしょうか?
負け惜しみでしょうか?
あるいは、「こんなに俺(私)は悪いことをして来たんですよ」と、弱さとしてではなく、強さとして誇っているだけでしょうか?
パウロが語った「私は私の弱さを誇ります」と言い切れた心境はどんなものだったのでしょう?
パウロは、エリート中のエリートであり、特別な霊的な体験をしました。
「私は特別な人だ」と優越感を持って、人を見下し、高慢になったとしても不思議ではありません。
神様は、パウロがそのような状態に陥らないために、サタンの使いを用いて打ち、体の中に致命的なトゲを与えられました。
何らかの病気だったと思われます。
「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。」(第二コリント12章7節)
パウロは高慢になることなく、神様に助けを求めました。強制的に神の御前にへり下りました。
水が低いところに向かって流れるように、神の恵みはパウロに流れ下りました。
しかし、パウロも私たちと同じ人間です。弱さが好きなはずはありません。
三度、「トゲを取り去って下さい」と祈つています。
「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。」(第二コリント12章8節)
聖書で「三」という数字は「完全数」です。
文字通り、「一回」「二回」「三回」祈っただけではなく、繰り返し、何度も何度も祈り続けたと考えても良いと思います。
その時、神からの祈りの答えがありました。
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。」(第二コリント12章9節)
その時、パウロは祈りを止めました。
パウロはきっと泣き崩れて大声で泣いたのではないかと想像します。
あれだけ、マイナスだと思っていたトゲでした。
「これさえなければ、神の働きがもっともっと効果的にできるはずなのに!」
それが、祝福だったと悟ったのです。
最高のマイナスが、最高のプラスに変わったのです。
次のように語りました。
「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(第二コリント12章9節〜10節)
ここに、聖書が語る福音があります。
私たちに与えられた祝福は、素直に感謝して受け止めたら良いのです。
しかし、祝福から最も遠いと思われる「弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難」などが、実は、祝福される生き方につながっているのです。
弱さを感謝し、誇れるのです。
と言うことは、すべてのマイナスはプラスであり、感謝できないことは一つも無いのです。
それゆえに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(第一テサロニケ5章16節〜18節)という聖句は、理にかなった内容であり、神が私たちに望んでいることなのです。
今まではそうできなかったかも知れません。
しかし、今からは、どんなことにも感謝していきましょう。
感謝できなかったら、「絶えず祈りなさい」とあるように、「感謝できません。苦しいです。助けて下さい」と祈りましょう。
そして、極め付けは、「私は私の弱さを誇ります」となるのです。
ここまで砕かれ、ここまで練達された人からは、不幸、不平、不満の方が逃げていくはずです。
そんな祝福の考え方、生き方が私たちのものとなりますように。
今日の一日一シャは、あなたの人生にコペルニクス的転回を与えるのではないでしょうか。
ログインしてコメントを確認・投稿する