初めてこの種類の犬を知ったのは小説だった。
パンジィはブラックな仕事を専門にする私立探偵のパートナーで、当時の私は離婚したばかりで所在の無さは飼い主のいるパンジィにも劣る心許なさだった。
区立図書館のミステリー系の書棚に数多くある中の一冊は、時おり私に声なき声で訴えかけ話し掛けてくる
「我を手にとれ」
と言わんばかりに、そのタイトルでもって訴えて掛けてくる。
読書好きには堪らない一瞬だ、その直感ともつかない何かの天啓にも似た瞬間は、平穏な日常に何一つとして変化を呼ばず、人類の存在に何らの恵みももたらしはしない、何の役にもたたない素晴らしい閃きの瞬間だ。
その直感の働いた後には素晴らしいひとときが訪れる、ただ1人読書好きにとってのみ。
で、離婚直後の有り余る暇にあかせた読書三昧の日々に、丸で私のような私に本のなかで出会ったのだった。
マスチフのパンジィは、私にとても良く似ていた。
良く手間をかけられて育ち、健康状態は良好で衛生状態も満足のいくもので毛づやも良い、運動も欠かさず、飼い主との意思疏通も良好だ。
しかしパンジィは食事に際して、「食え」ではなく「話せ」と教えられている。
忠犬が飼い主から与えられた食事を、僅かに一言の命令により口をつける、飼い主から「話せ」と命じられた時にのみパンジィは食事をする。
私立探偵の手により乳児期から育てられ既に成犬となっているパンジィに、命令語の変更は利かない。
当時に私が配偶者と離婚した理由は、多分そんなところだろう。
食事に際しての命令語を「食え」と教えられた犬と、食事に際しての命令語を「話せ」と教えられた犬と、二頭の犬が出会ったときに恋が芽生えたとしても、二頭の来歴を知らないトレーナーであればパンジィについての困惑は大きく飼育は難しい。
パンジィは、新しいトレーナーとは、その始めから言葉による意思の疎通を欠いているのだ。
私の育ちも、パンジィと似たようなものだ。
他を全く受け付けないわけではないが、他の信頼関係の在り方を受け付けない。
誰からどんなに言葉で説かれても、私には愛や友情や信頼を証す言葉の在り方が違ってしまっている。
誰からどんなに言葉で説かれても、言葉の意味は理解できても実感はされない事柄ばかりが並ぶ世間。
例えば誰かが「貴女をとても大切に思っているのよ、私自身の命と全く同じに貴女を大切に思っているのよ」と私に言葉で説いても、私にはその気持ちは実感はされない。
逆に私からは「そりゃあ嘘っぱちってもんだ、それこそ言葉のあやってもんだろう?」と思われるだけだ。
結果、私はパンジィのように、私のもとに戻り来る人間と、私のそばに寄り添う人間と、その両者のみを信ずるに至った。
物事は意外と単純で、万の言葉を並べ立てるよりも、億の言葉を撒き散らすよりも、その行動一つのみで全てが解決に至る場合もある。
しかし何故、沢山の思い遣りの言葉をくれる人々よりも、自称右翼のほうが単純明快に私の生物的な本質を理解しているのだろうか…?、その件については私に非はなく右翼にも非はない。
離婚してから紆余曲折を経て後に再び私と一緒に暮らし始めた元・配偶者は、時おり旧い右翼の言葉を使う。
今現在の私と配偶者のダーさんは、一緒に居ても特に何を話すわけでもないが、ただ同じ時間を同じ家で共に過ごして同じテレビを並んで眺めていたり、違うメニューの食事を同じテーブルで食べていたりしている毎日だ。
私と配偶者のダーさんは、その間に言葉がないほうが関係が上手くいっている。
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