一生トラウマに…夫婦の会話が子どもに与える影響
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「月見れば 千々にものこそ覚えけれ わが身一つの秋には あらねど」(大江千里)
父は、20歳になる前に 国立結核療養所に収容された。
両親が14歳のころまでに亡くなる原因となった肺結核に、自身も罹患していたからだ。
特に、祖母の晩年(父、中2)は背中の穴から溜まった膿を吸引する作業を手伝ったり、いつ感染してもおかしくない状況で。
両親亡き後。
(先に、9歳の頃に亡くなっていた)父が宮大工だったので、知り合いの製材所で下校後は製材所の会計の仕事を手伝いながら、通学する日々。
まさか、親と同じ病を親の死後、6年も経ってから自分が冒される事になるとは思ってもいなかっただろう。
昭和20年後期は、結核菌による肺病感染率が高かった頃。
感染率の高い治療法も時代遅れな感じで その頃は”不治の病の、国民病”とも言われてた。
知り合いの紹介で有無を言わさず、愛媛の国立療養所があった横河原に一人 入院させられ二年半を過ごす。
幸い父は経過良好だったが、そこで自分より症状が重かった母(当時17歳)と出会う。
父は本好きだったので、入院中は絶対安静を義務付けられていたので 当時、流行だった堀辰雄の「風立ちぬ」などを読んでいて、母に一目ぼれしたんだそうな。
独身成年者病棟の隣の女子病棟にいた自分より重篤な母に「ここを出られたら、一緒になろう。だから頑張って」と誓い合ったらしい。
梅の花の模様のガーゼ生地で 自分で作った手縫いの浴衣を身に着けた母の姿は、確かに無垢な童女さながらだった。
(後の性格を考えると、腹の底では何を考えているか分からいシュールな性格だったが)
田舎育ちの母には、父のことを”うさんくさい 図々しい人”と思いながらも 自分の人生を開かせてくれる人とも思ったらしい。
ある日、療養所内の文化祭の後、夕暮れの道を川べりを散歩しながら、父は母にプロポーズした。
月見草の咲き乱れる河川敷で、鈴虫が一斉に鳴きだす場所で。
虫の鳴く、月の光に照らされて。
父「(抒情的で)しずかですね。」 母「(虫の鳴く音が)やかましいですね。」
と発した言葉は 両者の性格の不一致を物語る。
その後、10年を経て、二人は一緒になり 姉とオレを、この世にひりだし 今に至る。
母は、病気は治っても その後 別の病(オレを産んでから、糖尿病にかかる)を発症し、父より先に逝く。
父にとって、何年も経ってから長い闘病生活を共に過ごし、子も成し、孫もでき、今ではもう二人で見れなくなった月でも あの頃、二人で見た月と変わらない月を今宵も見るのだろうか。
今日も、どこかで咲いている 月見草を探して。
・・・人は うしないながら 生きていくんだよ・・・
という言葉を思い出す。
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