mixiユーザー(id:7448789)

2016年12月13日22:22

1698 view

君は「藤野先生」になれるか?

魯迅作「藤野先生」
前半http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/tohohu4.htm
後半http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/tohohu5.htm#hh1
中国の文豪、魯迅は若い頃、日本に学ぶ医学生だった。仙台に医学を勉強に行く。

>解剖学は二人の教授が分担した。最初は骨学である。その時入って来たのは痩せた色の黒い先生で、八字ひげに、眼鏡をかけ、大小さまざまの書物を重ねて脇に抱えていた。書物を置くなり、ゆっくり区切り区切り、学生に向かって自己紹介をして言った。 「私は藤野厳九郎という者であります・・・・・・・・・。」
後の方の数人が笑い声をあげた。彼はつずいて解剖学の日本における発展の歴史の講義をした。大小ざまざまの書籍は、初期から今日までに至るまでの、この分野の学問に関する著作だったのである。はじめの何冊かは糸綴じのものである。中国の訳書を翻刻したものもある。彼らの新らしい医学の翻訳と研究は、中国より別に早くはなかったのだ。うしろに陣取って笑い声を上げた連中は、前年度に合格しなかった落第生で、学校にはすでに一年いたので、裏話には甚だ明るくなっている。彼等は新入生に、一人一人の教授についての逸話を語り聞かせてくれた。

>この藤野先生は、なんでも身なりにはよほど無頓着で、時には蝶ネクタを忘れてくる事があるそうだ。冬は一張羅の古びたオーバーげ寒そうにしているので、或る時など汽車に乗ったら、車掌がスリかと怪しみ、車内の客に用心をうながしたことがという。彼らの話はたぶん本当であったのであろう。一度先生が蝶ネクタイなしで教室に現われたのを現に私が、この目で見たことがある。一週間が過ぎ、たぶん土曜日だったろう、彼は助手をよこして私を呼んだ。研究室に行ったところ、人骨とたくさんの頭蓋骨のまん中に坐っている彼が目にとびこんだ。−−−−−その頃彼は頭蓋骨を研究中で のちに一篇の論文にまとめ上げて本校の雑誌に発表された。

「私の講義は、聞き取れるかね?」 彼はたずねた。
「少し聞きとれます」
「持ってきて見せ給え!」

講義が聞こえるか尋ねるのは教育のプロである。身なりなどどうでもよい。(狸)

>私が筆記したノートを差し出すと、彼は受け取り、二、三日して返してくれた。そして、これからは一週間に一度持って来て見せるようにと言った。持ち帰って開いて見て、私は非常に驚いた。同時に一種の不安と感激におそわれた。私のノーとは始めから終わりまで、すっかり朱筆で添削してあるではなか。多くの脱けた箇所が書き加えてあるばかりか、文法上の誤りまで一つ一つ訂正してあったのである。これは彼が担当している学科の骨学、血管学、神経学が終わるまでずっとつづいたのである。

(本当に懇切丁寧である。)

>残念ながら当時わたしは甚だ不勉強で、時として、我が儘でもあった。今でも覚えているが、ある時藤野先生は私を彼の研究室に呼び出し、私のノートをめくって一つの図を出した。それは下脈の血管であったが、それを指し示しながら、やさしく私に言った。
「ねえ君、君はこの血管の位置を少し移動させたね。ーーーーそりゃあ、こう移してやると、たしかに、いくらか見た目にはいい、だが解剖図は絵画じゃないんだよ。実物がそうなっているものを、我われが換えるわけにはいかないんだよ。いまちゃんと直してあげたから、これからは黒板に書いてあるとおりに写し給え」

これも大事な教え。(狸)

>解剖実習をして、およそ一週間目のころ、彼は又、私を呼び寄せて、上機嫌で、例の抑揚のひどい口調で言った。「私は中国人は霊魂を非常に敬うと聞いていたんで、心配したが、君が屍体の解剖を嫌がりはしないかとね。これで先ずは安心したよ、そんなことがなくてね」

これも非常に懇切丁寧。たいていの人はこういうことは気にしない。(狸)

侮蔑を受ける魯迅
> 「汝悔い改めよ!」これは『新約聖書』に出て来る文句であろうが、最近トルストイの引用したものだ。時あたかも日露戦争のさなかで、日本の新聞は彼の不遜を強く論難し、愛国青年もいきりたった。ところが裏ではもう彼に影響されてしまっていたのだ。
そのあとの文句は、あらましを言うと、前年度の解剖学の試験問題は、藤野先生がノートにしるしをつけておいたので、私はあらかじめ知っていたのだ、だから、このような成績をとることが出来たというのである。文末は匿名であった。
私はこれでこの間のあの一件を思い出した。同級会をするというので、幹事が黒板に通知を書いた。終わりの文句は、 「全員漏れなく参集されたし」で「漏」の字のわきに○印が付けてあった その時その○をおかしいとは思ったが、全然気にとめていなかった。これであの字も私への、あてこすりであったのだと、やっと気がついた。教員が漏らした問題を私が手に入れたと匂わせていたのである。

>私はただちにこの件を藤野先生に知らせた。何人かの私と親しい同級生も大いに憤り、私と一緒に行って、幹事が口実を設けて検査する無礼を問責し、あわせて彼等に検査の結果を公表するよう要求した。結局このデマ中傷は立ち消えた。すると今度は幹事は極力奔走して、例の匿名の手紙を取り返そうとした。締めくくりとして私はこのトルストイばりの手紙を彼等に返してやった。

>中国は弱国なるが故に、中国人は当然低能児ということになる。点数が六十点以上になると、もう自分の力ではなくなるのだ。彼等が疑いぐるのも無理からぬことだ。ところで、つづいて私は中国人を銃殺するのを見学する運命にめぐり合った。第二学年には細菌学が加わり、細菌の形態はすべて幻灯(スライドか)で示されることになっていた。一区切りついてもまだ講義時間が終了になっていない時には時局の画片を映した。むろん全部日本がロシアと戦って勝利を収めた場面ばかりである。 ところが、こともあろうに中国人が、そのなかに紛れ込んで出て来たのだ。ロシア人のために密偵を働いたかどで、日本軍に捕らえられ、いまにも銃殺されようとしている。ぐるりを取り巻いて見物しているのも中国人で、そして教室にもう一人わたしがいた。
「万歳!」彼等はみな手をたたいて喚声をあげた。
こういった喚声は一枚ごとにあがるのであったが、しかし私にとっても、犯人が銃殺されるのを暇つぶしに見物する人々を見かけたが、彼等も酒に酔いしれたように喝采するではないか。ーーーーーーああ、如何ともし難い!しかし、その時、其処で、わたしの考えは変わったのだ。

藤野先生との別れ
>第二学校が終了すると私は藤野先生を訪ね、医学の勉強は止める。そしてこの仙台を去ろうと思っていると申し上げた。先生の顔に悲しげな色がよぎった。何か言おうとしたようだが、しかしとうとう何もおっしゃらなかった。
「わたしは生物学を勉強するつもりです。先生が教えてくださった学問はやはり役に立ちますよ」実の所、私は別に生物学をやろうと決心した、わけではなかったのだが、彼の寂しげな様子を見て、彼を慰める作り話しをつい言ってしまったのだ。
「医学のために教えた解剖学なぞは、生物学のたすけには、さしてならんのじゃないか」彼はため息をついて言った。
 出発する前日前、彼は私を家に呼び、私に写真を一枚渡された。裏には「惜別」の2字が書かれていた。そして私のもくれるようにおっしゃった。だがその時、折あしく写真はなかった。すると彼は 後日写したら送ってほしい、そして、始終、手紙でその後の様子を知らせるようにと念を押して、おっしゃった。



仙台を去ってから、私は長年写真というものうを写したことが無かった。それに状況も面白くなく、知らせたところで失望させるだけのことだろうから、手紙を書くのも気後れがした。歳月が過ぎるにつれ、いよいよ何から切り出してよいか解からなくなる。だから時には手紙を書こうという気持ちになっても、こんどはなかなか書きだせない。こんなわけで此れまでついに一通の手紙も一枚の写真も差し上げたことがない。彼の方から見れば、去ったが最後、杳として音沙汰なしである。

しかし、どういうわけか、私はやはり彼を思い出す。私が師と思いきめた人のなかで、彼はもっとも私を感激させ、私を鼓舞してくれたひとりなのだ。私はよくこう思う、彼の私にかけた熱意に満ちた期待、倦まざる教えは、小にしては、中国のためであり、つまり中国の新しい医学の出現するのを望むことだった。大にしては学術のためであり、つまり新しい医学が中国に傳わることを望むことだ彼の人柄は、私の眼のなかで、心のなかで、偉大である。彼の名は多くの人に知られていないが。
5 16

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2016年12月>
日 月 火 水 木 金 土
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031