父母の根源は天地の令命にあり
身体の根源は父母の生育にあり
子孫の相続は夫婦の丹誠にあり
父母の富貴は祖先の勤功にあり
吾身の富貴は父母の積善にあり
子孫の富貴は自己の勤労にあり
身命の長養は衣食住の三つにあり
衣食住の三つは田畑山林にあり
田畑山林は人民の勤耕にあり
今年の衣食は昨年の産業にあり
来年の衣食は今年の艱難にあり
年々歳々報徳を忘るべからず
遠州地域で報徳活動に力を尽くした人たち
1)安居院庄七( ?〜1847)
神奈川県秦野蓑毛村に生まれる。代々大山の修験の家で、次男でした。
1874年に浜松市の下石田村に神谷与平治の支援を受けて遠州に初めて
報徳社が設立された。その後毎年一回各地で報徳大会を開催し、結社の
数が増加した。明治八年に、各結社を統括するために浜松に遠江国報徳
本社を設立した。岡田佐平治が社長で、幹事は伊藤七郎兵、小野江善六、
新村里三郎、名倉太郎馬、神谷喜源治が勤めた。
2)内村啓助
3)岡田佐平治
4)武田兵佐衛門
5)松井藤太夫
6)中村常蔵
7)山中里助
森町山中家の報徳三兄弟の三男。安居院師に教えを受け嘉永六年に
日光を訪れ尊徳翁に謁した。しかし、学問がなくありのままを書く。
田のまこと種のよしあしほどほどに 植えて草こそ幾たびもとれ
8)神谷久太郎
9)新村里三郎
10)鈴木藤三郎
鈴木藤三郎は、森町に生まれ、養子となり菓子商の鈴木家に入る。
その商いは細く、日夜苦労して「氷砂糖」の製造方法を見つけて特許
発明となる。報徳社に加入して、商業の真理を悟り、いわゆる元値商い
の法によって、漸次商業の繁栄を来たし、傍ら氷糖の研究に没頭した。
日光今市に二宮尊徳の法会に参加、帰途宇都宮の旅舎にて隣の部屋
の学生の化学談を聞いて、覚るところがあり、これにより、純白かつ透明
な氷糖を製造することができた。これにより、工場を拡張、大いに事業を
進展させることができた。その後、東京に居を移し、遂に今日の大成を
なすに至った。これを報徳のお陰として毎月一回、自宅にて報徳会を開催
近県貯蓄を奨励し、兼ねて恩恵を社員に施したので、役員はじめ職工に
至るまで工場自らが子の制度を自主的に行うようになった。
11)吉川長三郎
日本製糖株式会社の取締役、
12)小野江善六
森町山中家の六男として生まれる。7歳で母に、11歳で父と死別。13歳で
浜松の商人絞屋善六に仕え、商売を習う。27歳で主家の養子となり小野
江家を継ぐ。安居院師に報徳の道を習うが、まだ半途でその終わりを見る
ことができない。案居院氏より「まこと」ということを尋ねられるに
われという心を捨てて老いぬまで 勤め励まん道の誠を
13)伊藤七老平
モリマチ山中家に生まれる。四歳で母を、八歳で父を失う。伊藤家に養われ
皆川家に仕えて早、19年。安居院師に尊徳翁の教えを乞い、まだ寸端を
得ない。終身をもって生養の徳に報いたい。
生み育つ父母の徳美(メグミ)を 今ぞ知る 身を終わるとも 報い尽きせじ
明治39年の静岡県内のほう特赦の結社数は442の多きに及んでいました。
岡田佐平治の子の良一郎は社長となり、見付と、掛川に分館を置いた。
日本製糖株式会社が、「殖産興業」の部で事蹟の中で紹介されている。
東京小名木川「日本製糖株式会社」は、遠江国報徳社社員鈴木藤三郎の
創立で資本金200万円を有し、日本第一の製糖会社とすえう。
{静岡県報徳社重責」(遠州地方分)として奇祭されています。
このとき遠州地方のほう特赦として名前が挙がっていたのは
1)遠江報徳社ーー浜松町本部==見付と掛川 支部があった。
2)報徳遠譲社==磐田市三川を拠点(福山瀧助)
3)報本社==森町に拠点(新村利助)
遠江報徳社は、浜松に本部をおいて、磐田見付、掛川に支所を置いていました。
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