>永 六輔(えい ろくすけ、1933年〈昭和8年〉4月10日[2] - 2016年(平成28年)7月7日[4])は、日本のラジオ番組パーソナリティ、タレント、随筆家。元放送作家、作詞家である。本名、永 孝雄(えい たかお)。
角刈り頭と細長い顔がトレードマーク。
長女の永千絵は映画エッセイスト、次女の永麻理は元フジテレビアナウンサー(現在はフリー)、麻理の長男で孫の育乃介は俳優。藤本義一とは遠戚である。
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略歴 編集
1933年(昭和8年)、代々東京・元浅草の最尊寺の住職を勤めていた永家の息子として生を受けた。江戸時代初期に渡来した中国の学僧を先祖に持つ在日外国人17代目と自称[5]。父や祖父は永という姓を「ヨン」と名乗っていた[5]。東京・下谷区(現在の台東区)の国民学校に通っていた1944年(昭和19年)、学童疎開により長野県北佐久郡南大井村(現在の小諸市)の国民学校に転校し、そこで終戦を迎えた。
1946年に長野県立上田中学校(旧制)に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中学校(旧制)に2年編入で転校。この間同校が学制改革により新制の早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。そのグループのリーダーが渥美清であった。
この頃からNHKのラジオ番組『日曜娯楽版』にネタを投稿するようになる。また、1948年から淀川長治が主催していた「東京映画友の会」の初期の参加メンバーであった[6]。1952年に早稲田大学第二文学部へ入学。大学では民俗学者であった宮本常一の影響を受ける。在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。早稲田大学文学部を1952年に中退[2][7]。
以後、ラジオ・テレビ番組の企画・演出や、ピアニストで作曲家の中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、マルチプレイヤーとして活動を続けてきた。特にラジオパーソナリティーとしての知名度が高い。古今の芸人についての研究や、政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志す運動[8]、佐渡島の独立運動、「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)など、ユニークな取り組みも多い。
ディズニーの日本語版製作のアルバイトをしていた関係で1956年には同社のアニメ映画『わんわん物語』でチワワのペドロの声を演じた。続けて『バンビ』『ダンボ』にも声優として出演している[9]。
1958年には、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。当時、『光子の窓』の脚本を担当していたが、安保デモに参加して脚本を落としたために番組を降ろされている[10]。
1960年代には1年間大阪で漫才作家の修行を積み若井はんじ・けんじらの漫才台本を書く。この頃にのちにやなぎ句会で一緒になる桂米朝と出会う。
1977年革新自由連合の結成に参加し政治活動にも進出。1983年6月26日執行の第13回参議院議員通常選挙に比例代表区から出馬したが落選。以降選挙への立候補からは撤退している。
1994年には『大往生』を発表。日本のあちこちの無名の人々の生、死に関する様々な名言を集めたこの本は、200万部を超える大ベストセラーとなる。他に、多方面でのエッセイの著作が多数ある。2000年に、全業績で菊池寛賞を受賞。
2002年 - 2007年まで、校長が中山千夏、講師陣が永、矢崎泰久、小室等という私塾「学校ごっこ」に係わった。
2008年6月、第45回ギャラクシー賞において、ギャラクシー賞45周年記念賞を受賞。
趣味は旅と読書で、特に旅に関しては1年中どこかに出掛けている。スポーツではラグビーが好きである。[要出典]
音楽ではシャンソンが好きで、石井好子との学生時代からの交友関係もあった。その一方で、演歌はあまり好きでないが「好きな演歌もある」そうである[11]。
2009年に呂律が回らなくなったと『週刊女性』に報じられ[12]、そのときは加齢と入れ歯のせいだとしていたが[13] [14]、2010年になってパーキンソン病と診断されてこれを公表し、投薬治療を受けている[15][16]。2010年9月30日には、前立腺癌とパーキンソン病と闘病しながら活動を行う永を密着取材したドキュメンタリー番組『永六輔 戦いの夏』がNHK総合で放送された[17][18]。一時は引退も考えたと語る事もあったが、投薬治療されるようになってからは症状が良くなりラジオでも会話が滑らかになってきている。2011年10月20日、永六輔に近いおすぎはパーキンソン病でなくバセドウ病だとラジオで語っている[要出典]。
パーキンソン病の影響で歩行困難になっており[17]、2006年に奄美大島で転倒して右足小指骨折し、半年間杖で歩行していた。さらに2011年11月16日夕、東京都内の自宅で転倒して大腿骨頸部を骨折し入院・手術[16]。永の強い意志で仕事は極力休まず、ラジオのレギュラーは病室からのゲスト参加や収録という形式が採られた。同12月27日、イベントへ車椅子で参加。以後、レギュラー2番組の放送・収録は病院からスタジオへ赴いている。2012年1月17日に退院。リハビリは継続して行っている。
2013年、毎日芸術賞特別賞を受賞。
2016年6月27日の放送を以って「六輔七転八倒九十分」が終了し、全レギュラー番組を降板した。1967年1月から続いた永の冠ラジオ番組は幕を閉じることとなった。今後はスペシャル番組などがあれば出演していく予定だったが、2016年7月7日に死去していたことが同月11日に発表された。83歳没[19][4]。
作詞家活動 編集
1959年、作曲家の中村八大からの依頼がきっかけで作詞家として活動を始める[20]。この年、「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞を受賞。1959年 - 1966年にかけて中村八大とのコンビにより数々のヒット曲を飛ばし、特に1961年に坂本九が唄って大ヒットした「上を向いて歩こう」がアメリカ合衆国でスキヤキ・ソングとタイトルを変え『ビルボード』のウィークリーチャート(Hot100)で1位(1963年6月15日付けから3週連続)に輝くという金字塔を打ち立てている。しかしラジオの活動に重きをおくようになった1967年以降は作詞活動から後退し、1969年以降は付き合いを除く作詞活動から撤退した。
永が作詞家として全盛期を迎えたのは、日本のミュージックシーンに作詞・作曲から歌まで1人で手がけるシンガーソングライターが登場した時期でもあった。ビートルズが来日した1966年は、美輪明宏が「ヨイトマケの唄」を、さらに荒木一郎が「空に星があるように」を、自ら作詞・作曲し歌ってヒットさせた年でもある。
作詞をやめた理由としては、「テレビに出れば何でも流行するのか」と怖くなったことがあげられる[21]。また、永が多くの詞を提供した作曲家である中村八大といずみたくの2人は、同世代であり互いの曲を意識しあったが、共通の友人でもある永には複雑な思いがあった。特に板挟みのような状況ではなく作曲家2人は仲が良かったのだが、それだけに「友達でいることを優先」したかったことも、その理由のひとつだったと後に本人は述べている[22]。それとともに、シンガーソングライターの出現により「自分が歌いたい歌を作詞すればよい」と思うようになったということもあげられるが、それはシンガーソングライターを否定するものではなく、きたやまおさむとは『土曜ワイド』にたびたびゲストとして招いたり、逆にNHK-FMの『きたやまおさむのレクチャー&ミュージック』に永がゲスト出演する(2010年12月10日・17日など)という仲である。
永は1974年に野坂昭如・小沢昭一と中年御三家を結成して日本武道館でコンサートを行い、ビートルズ以来と言われるほど盛況であった(2003年(平成15年)に「帰ってきた中年御三家」コンサートをNHKホールで行ったが、野坂は病気のため不参加)。
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