http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16554 (写真入り記事)
人の幸・不幸を決める基準は、持ち物が多いかどうかにはよりません。
これは負け惜しみではありません。
ある日、友人牧師を訪ねた時、驚きました。私の自宅の10倍以上の広さの家に一人で住んで居るのです。
冗談で、「うちは6人、あなたは1人。こんな広いところもったいないんじゃない?交換しない?」といいました。
しかし、その時、ふとした心のすき間から、「私がこんな広い家に住めたら、妻と子どもたちはどんなに喜ぶだろうな?」と考えて、複雑な気持ちになります。
実際は、今住んでいる場所に生活の基盤があり、教会活動をし、地域活動もしています。さらに、出前牧師やいろいろなキリスト教関係の会議に出席するのも便利ですので、簡単に家を取り替えて引っ越すことはできません。
一緒に居た人が、私がしみじみと、「こんな家に住んで居たら家族が喜ぶだろうなー」といった言葉に反論しました。
「菅野牧師には、今置かれた環境が一番いいんですよ。もし広い家に住んだら、子どもたちがそれぞれ部屋を持ち、一緒に時間を過ごすこともなくなってしまいますよ。」
常々、「人と自分を比較することはナンセンスです」と話していますが、心のすき間から、小さな思いですが、入り込んでしまうことの恐ろしさを感じました。
「軒を貸して母屋を取られる」ということわざがあります。
また、こんな話があります。
旅人が、砂漠でテントを張って夜眠っていると、鼻息の音がするので起きてみると、らくだが、「寒いので顔だけテントに入れさせてもらえないでしょうか?」と頼まれたので、渋々了承しました。
しばらくすると、テントにらくだの体が半分が入っていました。「おいおいラクダ君、困るよ!」というと、「ごめん、ごめん、どうしても体が寒いので・・・」と。
明け方起きてみると、らくだにテントは占領され、旅人は外に追い出されていました。
人と自分を比較する思いは、最初は顔だけ入って来て、終いには心すべてを占領し、不幸な思いにさせられてしまいます。
私は、次の聖句を口ずさみました。
『わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』(詩篇103:1〜2)
「私の幸せは、持ち物によらない!」ことを思い起こしました。
人が不幸を感じる一つの大きな原因は、人と自分を比較することです。
もちろん、「人は人、人はどうでもいい。わが道を行けばいい!」と、「going my way」も考え物ですが、幸せは持ち物によらないことだけは確かです。
今日は、急きょ消防団の訓練活動が中止になりました。本当は、今ごろ作業服に着替えて出かけている頃です。
私は、外のボランティア活動にそれなりの時間を割いています。
時々、心を痛めます。家事や育児にもっと時間を割かなければと思います。
そこで、今日は、子どもたちが通う水泳教室の送迎をしました。
本当は、室内のプールで泳いでいる姿を見学したいと思いましたが、駐車場がないため、車の見える場所で「祈りの散歩」をしました。
1時間後、子どもたちが戻って来たので、韓国食料品店に立ち寄ってから帰宅しました。
子どもたちは、あっという間に大きくなってしまいます。食事の時間以外にも、事ある毎に、子どもたちと共に時間を過ごすことは大切だなーと感じました。
そして、祈りの散歩をし、買い物をしたら、「一石4鳥」です。
�� 子どもの送迎
�� 祈り
�� ウォーキング
�� 買い物
私は、自分にやるべき仕事が与えられていることにも幸せを感じます。
幸せは、人と比較するところから感じるものではなく、今置かれた場所に根を張って、使命を果たすべく、しっかりと花を咲かせ、実を結ぶことだと思います。
そして、「人からどう評価されるか?」も関係ありません。
人の評価は一時的であり、正確ではありません。
人の評価で幸せを感じようとすることは、イエス様が語られた、「人はパンだけで生きるものではない」といわれた「パンの代用品」です。
神が下さる心の食事であるパンは、「あなたを愛している」と語ります。
このいのちを養う食事を、人の言葉を代用品とすることはできません。
人は、一時的に評価してくれたかと思えば、飽きっぽく、浮気っぽいものです。
その時、幸せから不幸のどん底に突き落とされることになります。
最後に、私たち人間は、共通して、愛され、認められ、評価されることを必要としています。その心を満たす心の食事は、神の言葉である聖書にあります。
聖書を読み、その言葉を心の糧とし、心を養い、心を満たし、心を強くしていって下さい。
そうしたら、どんな状況の中にあっても、幸せを感じられる人になります。
ありのままで幸せを感じられるなら、酒も、タバコも、薬も、快楽も、必要なくなっていきます。
つまり、嗜好品や娯楽にかけるお金が減るので、たくさんのお金を持たなくても、生活に困らないならばそれで満足できるものです。
『満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。』(第一テモテ6:6〜8)
『乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』(ピリピ4:11〜13)
一緒に、幸せな人生を歩んで生きましょう。
今日もありがとうございました。また明日お会いしましょう。
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