http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16450 (写真入り記事)
今日は、朝から時間との戦いでした。
今晩行われた「国家晩餐祈祷会」は夜からなので、夜にいってもいいのですが、お昼過ぎから関係者控え室で晩餐会の準備のお手伝いをしました。
午後1時半に会場入りしましたが、打ち上げを終えて帰宅すると夜11時過ぎでした。
たまにホテルにいくと、VIPになったような気持ちになります。きれいで、居心地がよく、夢を見ているようですね。
同じ牧師でも、微妙に考え方の違いがあります。
�� 牧師は、羊飼い(信徒のお世話をする人)である。
�� 牧師は、手本でありリーダーである。
�� 牧師は、教会の経営者である。
知人牧師は、「時々ホテルなどにいって、リッチな気持ちになって経営者意識を養った方がいい!」とアドバイスしてくれます。
これは、自信を養うためには有効的な方法だと思います。
私は、どれもそうだと思いますが、バランスが大切だと思います。そして、その中でも仕えることを学ぶことが一番大切だと思います。
今日は、約2000年前にイエス様が十字架にかけられたといわれる聖金曜日ですが、十字架の死に至るまで、神と人に仕えられました。
イエス様は、弟子たちの前にひざまずいて足を洗われました。また、裏切り者のユダにさえ最後まで愛を示されました。
今日は、晩餐会の準備のお手伝いをすることができて、とても恵まれた一日でした。
普段は、忙しいこともあり、会がはじまる間際にいくことがほとんどですが、今日は、会がはじまる4時間以上も前にいって、みんなで力を合わせてお手伝いをすることで、何十倍も心が喜びで満たされました。
イエス様は、ヨハネ2章のカナの婚礼で水をぶどう酒に変えられました。
「宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。」(ヨハネ2:9)
聖書は、水を汲む仕事をした人だけが体験し、知っていたと書かれています。
今日のできごとも、手伝いをした人だけが味わえる喜びの世界があります。
私は、いきなり大教会で社長のような牧師ではなく、ゼロから教会をはじめた牧師です。そのおかげで、トイレ掃除や床掃除から、すべてのことを経験することができました。
とてもよい経験をさせてもらいました。
少し前から、韓国ドラマにはまっていますが、最近見ているのは「トンイ」です。
トンイは、賤民(せんみん)の出であり、剣契(コムゲ)の頭の娘です。お父さんとお兄さんは濡れ衣を着せられて殺されました。命からがら逃げ切って宮廷入りしました。
トンイは、幼い頃に3日間何も食べられず、国が配給するおかゆを食べて生き延びた経験をしています。後に、王様を連れて賤民の暮らしを知らしめて驚かせました。また、賤民におかゆを配給しました。これは貧しい過去の苦しみを知っているので、偉くなっても貧しい人たちの気持ちがわかり、仕えることを忘れませんでした。
私は、自分自身が罪のどん底から救い出されたことを忘れないで、人々に仕える牧師でありたいと願います。
偉くなると、雑用は下の者にやらせて、人を使うことしかできなくなってしまいやすいことを知っています。もちろん、役割の違いがあります。
しかし、イエス様がそうであったように、どこまでも人に仕えることを忘れないでいたいと思います。
今日は、何時間もお手伝いをさせてもらったことで、一つの会を行うのにたくさんの方々の力によって成り立っているんだということを痛感させられました。
それぞれ役割の違いがありますので、みんなが同じことをする必要はありません。でも、どんな立場、どんな環境にあっても、仕える心を忘れたとしたら、歌を忘れたカナリヤのようだと思います。
「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:6〜8)
仕える生き方のモデルはイエス様です。
わざとらしい見せかけの謙遜を行う必要はありません。それでは偽善者です。神に愛されていることに感謝し、充足し、堂々と、生き生きと、のびのびと生きたらいいのです。
しかし仕える心をもち続けたいです。そんなことを考えながら帰宅しました。
一日お疲れさまでした。おやすみなさい。
また明日お会いしましょう。
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