http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16405 (写真入り記事)
今日は、午前中に用事を済ませて、お昼過ぎに帰宅しました。午後は、自宅で明日の教会での礼拝の準備をしていました。
電話のベルが鳴ったので受話器を取ると、「新宿警察ですが、菅野直基さんはいらっしゃいますか?」と言いますので、「はい、そうです」と返事をしました。
もし、何か心にやましいことがあったら、「何で警察が!?これはまずい!?」と思っただろうと思います。
聖書は、「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。」(ローマ13:3)と語ります。
この支配者は、警察を含め、国家権力者や政治家などです。
クリスチャン人生を生きていて良かったと思うのは、心にやましいことがないことです。
しかし、警官の話を聞いているうちにムカムカして来ました。
何と、駐車している私の愛車に、トラックが突っ込んだというのです。
現場に着くなり、「一体どこ見て運転してるの!」と開口一番言いました。
運転手の返事は、「子どもが急に飛び出したので、避けたらぶつかってしまいました」というのです。
子どもが飛び出したのを見た目撃者はいないし、その子どもは現場には居ないので、運転手のわき見運転の可能性もありますが、運転手の言葉を信じることにしました。
子どもがひかれなかったので良かったです。
さらに、ぶつけたトラックの運転手は、割れた窓ガラスの掃除と、割れた窓ガラスにブルーシートの応急処置をしてくれたので、もう怒る気持ちもなくなりました。
私の一番下の子は、やんちゃでどうしようもないほど活発です。
先日、妻がその息子が横断歩道を渡っている光景を見ていたそうです。近くを通った自転車や車が悪かったそうですが、間一髪事故に遭わないですんだことがあったばかりでした。
車が事故に遭っても、スペアパーツはいくらでもありますが、人間の体にはスペアパーツはありません。
とにかく、今日飛び出した子が無事でよかった。また、先日、息子が間一髪事故に遭う状況だったのに守られて良かったと思います。
今日は、朝から体が疲れを感じていました。体が重いのです。
「神様、疲れています。助けて下さい」とお祈りをしました。
そうすると、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはなりません。」(第一テサロニケ5:16〜19)という聖書箇所が心に響きました。
「いつも喜んでいなさい。」と「すべての事について、感謝しなさい。」の間には、「絶えず祈りなさい。」という言葉がサンドイッチの具のように挟まれています。
いつも喜び、すべての事について感謝する秘訣は、絶えず祈ることにあるのだと思います。
祈りは、霊的な呼吸のようなものです。祈りが途絶えると、呼吸しないでいると死んでしまうように、心の命は死んでしまいます。死ぬとは、喜びや力がなく、体は生きているのに、死んだ状態です。
美川、槙原、赤坂、ノリピー、押尾、小向、マーシー、ASKA、清原と、芸能人が次々に覚せい剤を使用していたことが発覚しました。
覚せい剤を使うと、脳が幸せを感じるのだそうです。それは中毒性があり、一度でもその快感を味わってしまうと、またやりたくなるものだそうです。
なぜ薬をやるのでしょうか?
裏を返せば喜びがないからです。
喜びの秘訣は、「絶えず祈る」ことです。
私の愛車がぶつけられて、最初は腹が立ちましたが、徐々に怒りは消えていきました。
「子どもが飛び出したので、それを避けるためにぶつかってしまいました」と聞いて、「仕方がない」と思いますし、掃除と割れた窓ガラス部にブルーシートを貼ってくれたことで、怒りも収まりましたが、一番は、祈りにありました。
警察から電話をもらって、現場に着くまでにも祈っていました。神様は、トラックの運転手に対しても祈るように示されました。彼のために祈っていると、心に喜びが湧き上がり、さらに、同情する心になりました。
話は変わりますが、身近な人が私に、「打たれ強いですね!」と言ってくれることがあります。
つまり、「普通の人なら、これくらいつらいことがあったらへこたれてしまうものなにに、いつもニコニコしていますね」と言う事です。
私もそう思うことがあります。
なぜそう思うかと言うと、かつての私は打たれることに弱く、すぐに腹を立てたり、へこたれたり、逃げ出したり、現実逃避に走っていたからです。
祈りの力によって、打たれ強くなり、ちょっとやそっとではへこたれず、最後までやり遂げる人間に変わりました。
私は、祈りにどれほどの力があるのかを、自分自身に人体実験をしてきました。その結果、祈りの力を痛感しています。
最後に、事故を起こした人と、会社の社長さんがお菓子を持って挨拶に来られました。
「なだめの供え物」という言葉が聖書に書かれています。
ただ「ごめんなさい」と口で謝るだけではなく、何らかのものを持っていくことで怒りが鎮められるのですね。
今、来られましたが、疲れがいやされ、心が慰められました。
聖書は、イエス・キリストの十字架が、なだめの供え物であると教えます。
「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」(第一ヨハネ2:1〜2)
神は、イエス・キリストが十字架につけられて死なれたことがなだめの供え物となり、神の怒りが鎮められたのです。
聖書は、私たち人間を、生まれながらの怒りの子であると教えます。それは、罪深く怒りっぽいということではなく、神の怒りの対象だということです。
しかし、イエス・キリストがなだめの供え物となりました。
イエス様を信じるなら、神の怒りは静まり、過ぎ去ります。
あなたがイエス様を救い主として信じるならば、あなたの過去・現在・未来のすべての罪が赦されました。
神と和解したのです。
だから、祈ることが赦されているのです。そして、祈りに力があります。
良い週末でありますように。祈りつつお過ごし下さい。
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