「通りよき管」という言葉をクリスチャンになってから度々聞いてきました。
聖書の中に出てくる言葉ではなく、聖歌578番の「主の愛のながうちに」の第三節と折り返しの詩に使われている言葉です。
「通りよき管」は、英語の原詩の「channel of blessings」を訳した言葉です。
�ー腓琉Δ瞭髻覆覆�)内に 満ち溢れおる時
主の用いたもう手は すみやかに伸ばされん
用いたまえ我が主よ 用いたまえ我をも
み恵みを取り次ぐに 通りよき管として
�¬任唸圓�魂たましいを 重荷とはなさずや
なにゆえに主の救い 人々に語らぬ
用いたまえ我が主よ 用いたまえ我をも
み恵みを取り次ぐに 通りよき管として
�D未蠅茲�管となり み恵みを取り次がん
御霊みたまにて満ち溢あふれ み栄えをあらわさん
用いたまえ我が主よ 用いたまえ我をも
み恵みを取り次ぐに 通りよき管として
今日は、教会でのたまっていた仕事をし、後半は説教準備をしました。
しょっちゅう説教準備をしているような気がします。
説教準備は、牧師になりたての頃よりはなれましたが、準備が終わる頃には、自分の中にあるつまりっているものがすべて取り除かれ、完全に空っぽになったように感じます。
そんな時、「通りよき管」という言葉を思い出しました。
牧師とは、神の言葉を伝える「通りよき管」だとしたら、管である私の中に、自分の考えや間違った偏見などの思いがつまっていたとしたら、神の言葉に自分の考えを混ぜ込んだり、神の言葉を曲げて解釈して伝えてしまうことになります。
説教の準備をし、説教を語る時に、管である私自身がキリストとともに十字架につけられて死に、聖められるとしたら、これ以上の祝福はないと思います。
『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』(ガラテヤ2:20)
そうならないと準備はストップし、進まないのです。
そしてさらに、神の言葉が私の中を通過する時に、私の中にその言葉が受肉し、その実態が形造られていくように感じます。
『私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。』(ガラテヤ4:19)
説教の準備が終わるまでは食事をしないことに決めているので、朝食以来の食事をしながらTVを見ていると、中学生がいじめを苦に電車に飛び込んで投身自殺をしたというニュースが流れていました。
その子は、担任の先生に何度も「SOS」のサインを送りましたが、それをまともに受け止めてもらえず、殴られ、罵られ、といういじめはやむことなく、自ら死を選んでしまいました。
十代の若かった頃のことですが、「死にたい!」と思いつめたことがありました。状況は違いますが、その苦しい気持ちはわかります。
だから、「どうして助けてあげられなかったのだろう」と、心を痛めています。
�� 神のラブレターである聖書の言葉を人々に伝える「通りよき管」として用いられたい。
�� 苦しんでいる人々を神の元にお連れする「通りよき管」として用いられたい。
「通りよき管」として、説教の準備をすることは大切ですが、教会の中だけやインターネットだけでは、限られた人にだけしか伝えられません。
どうしたらすべての人に「通りよき管」として神の愛を伝えられるのか祈り求めながら、今日の一日一シャとさせていただきたいと思います。
一日お疲れ様でした。神様の祝福をお祈りいたします。
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