http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16212 (写真入り記事)
私は最近の3つの失敗をしました。どれも、グラハム大会の教会訪問の時の車に関することです。
最初の2つは、田舎のある教会に訪問した時、駐車場にバックで入れていた時のことです。都会の駐車場には、通常、車止めブロックがありますので、壁にぶつかる前に止まりますが、それに慣れてしまっていたため、ゆっくりでしたが、ブロック塀に「ゴン!」とぶつけてしまいました。一度目はバンパーがつぶれて盛り上がってしまいました。もう一度は、左角の反射レンズが割れてしまいました。
もう1つは、ナビゲーターの誘導通りに走っていたら、右折禁止場所で右折をして、青切符を切られてしまいました。
どれも、最悪でみじめなな気持ちになりました。
無性に腹が立ち、「神様、あなたの働きのために一生懸命にやっているのに、どうしてこんなことが起こってしまうんですか!?」と祈りました。
祈っていると、最悪の気持ちが徐々にニュートラル化し、最後は、「これくらいで済んで良かった!?神様感謝します!」と祈れるように変わりました。
旧約聖書の詩編の祈りの多くはそういうパターンで書かれています。
最初は、苦しみのどん底から、怒り、恨みつらみをそのままぶつけて祈り始めていますが、次第に心はニュートラル化され、最後は「ハレルヤ!」で終わっています。
祈りとは、宗教的なお勤めではありません。祈りとは、神とのお話であり会話です。
今のありのままの気持ちをそのまま申し上げるところからスタートします。そうすると、神は、今のあなたのところにまで降りて来て下さり、そこで神と直結されます。
そうしたら、次第に引き上げられ、おんぶしてもらいながら天の高みへとのぼっていき、「ハレルヤ!」と叫ぶようになります。
ここが祈りのポイントでとして大切なことです。
神様の領域まで自分を高め、整えた上で祈り始めるのではなく、今、ここにいる、どん底に居るならどん底のままの私の場所から祈りをはじめることです。
これは、クリスマスの出来事を見たらよくわかります。
キリストは、神の一人子であり、神ご自身です。通常、私たちが神のおられるところまでいかなければならないのが常識です。
しかし、神と人間の間には、超えることのできない淵があり、誰もその淵を超えて神のおられるところにまでいくことはできません。
『見よ。【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。』(イザヤ59:1〜2)
だから、神の方から私たち人間のいるところまできて下さった出来事がクリスマスであり、そのお方がイエス・キリストです。
しかも、キリストが誕生したのは、宮殿や整えられた環境ではなく、ベツレヘムの洞窟の中にある羊小屋の飼い葉おけの中です。
イエス・キリストは、「神の子羊」と呼ばれました。
『(バプテスマの)ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(と言った)』(ヨハネ1:29)
「神の子羊」の意味は、将来、全人類の罪を贖うために十字架の上で生贄として捧げられるお方という意味です。
十字架で死なれるために生まれた神の子羊イエス・キリストは、羊小屋の飼い葉おけの中に生まれました。
また、イエス・キリストが誕生した町の名前は「ベツレヘム(בֵּית לֶחֶם)」です。意味は「パンの家」です。
イエス・キリストは、「私はいのちのパンです」といわれましたが、「いのちのパン」であるお方が「パンの家」=「ベツレヘム」に誕生されました。
『イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」』(ヨハネ6:35)
話はもとに戻りますが、イエス・キリストは、立派な場所ではなく、最も貧しく、不衛生な場所に誕生されました。
もし、宮殿や整えられた場所に誕生されたとしたら、私たちが、きれい聖められてからでないと神に近づくことは許されませんでした。
しかし、羊の飼い葉おけの中に生まれたということは、私たちの誰にも見せたくない、本当の姿のところにまできて下さったということです。
だから、祈りはありのままの今の私の姿、私の現状からはじめていいし、はじめるべきなのです。
私は、教会訪問をするためにいろいろな意味で犠牲を払っていました。それは強いられてではなく、自ら進んで、喜んでさせて頂きましたが、その犠牲を払ったという意識がある分だけ、失敗をした時には、「なんで神様!?」という怒りがこみ上げました。
神様は、その祈りをただ黙って聞いて下さいました。
「あなたの不注意が原因です。そんな文句を言われても・・・。」というような野暮なことはいわれませんでした。
神は、私のあるがままを受け入れ、包み、理解し、慰めて下さいました。
右折違反で警官から青切符を切られた時には、娘も一緒に教会訪問に同行してくれていました。私が切符を切られている姿を見てショックだったそうです。そのことが私の気持ちを混乱させました。
やがて私の心は変えられていきました。ニュートラルに変わり、最後は感謝に変わりました。
しっかりと納得ができるようにもなりました。
�� 人を怪我させた訳ではないので、バンパーの凹みや反射レンズの割れは修理可能です。
�� 反射レンズは、交換手数料込みで6500円ほどで済みました。バンパーの凹みは、15年選手の車なので、そのまま放置して乗ることにしました。
�� 右折禁止違反は、反則加点点数2点、反則金7000円。その日のうちに反則金を収めて解決しました。
�� 最近、パソコン仕事を多くすることで、視力が低下しています。慎重に運転するようにとの神様からの愛の指導でした。それは、軽い病気にかかった方が健康に気を付けつようになり、結果として長生きすることがあるように、こういう失敗があったことで、慎重に運転することで、大きな事故や違反をしないで済むようになると思います。
�� すべての免許を持っていますし(けん引二種・大型特殊二種を除く)、若い頃は、峠を攻めたり、ジムカーナやラリーもやっていましたし、運転に自信がありましたが、そのプライドが木っ端みじんに砕かれました。下手なドライバーが前を走っていても、渋滞に巻き込まれても、腹を立てることが減り、運転が楽しくなりました。
神は、時には自信をつけさせるために、様々な業績を残こるようにさせて下さったり、成功させて下さいますが、同時に、高ぶって人を見下したり、高慢にならないように、失敗を通して謙遜にならせ、へりくだらせて下さいます。
神様のなさることは絶妙です。
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ8:28)
神に祈るなら、どんな失敗も益に変わります。
しかし、神に祈らないなら、どんな成功も人を高ぶらせたり、呪いになることがあります。そして、失敗もマイナスで終わってしまうこともあります。
神に祈り、神に来て頂き、神と出会い、神と共に一歩一歩前に進んで参りましょう。
「一日一シャ」。これが今日の感謝です。
今日は、毎月行われている祈祷会のクリスマスでした。2時間たっぷり祈りの司会をさせてもらいました。水を得た魚のように、素晴らしい時間でした。
祈祷会後には、一緒にお弁当を食べて懇親の時を持ちました。
一日お疲れ様でした。神様の祝福をお祈ります。
菅野直基
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