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2015年12月01日07:09

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「二兎を追って獅子を得る」

http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16197 (写真入り記事)

「二兎を追うものは一兎も得ず」ということわざがあります。

その意味は、それぞれに逃げていく二匹の兎(うさぎ)を追いかけても、一匹の兎(うさぎ)も捕まえられないことがあるように、二つのことを同時にやっても、両方とも中途半端で終わってしまうことがあるということです。確かにそういうことはあります。

しかし、神様が与えて下さった使命のためには、二兎どころではなく、三兎も四兎も同時に追いかけていく必要があります。

私の職業は牧師です。そして、基本的には、牧師の仕事に専念しながら生きています。

基本的にはと言ったのは、「牧師の仕事はここからここまで」というのは、人間が考て、人間が決めた部分もあります。

「牧師らしさ」という牧師像まで出来上がっています。

「絵に描いたような牧師そのもの」という人もいますが、「とても牧師らしいとは思えない」人もいます。

私は、おそらく、多くの日本人が思い描く牧師像からはみ出していると思います。

地域のPTA連合会や育成会の懇親会に参加した時、「失礼ですが、どんなご職業をされているんですか?」と興味津々で聞かれることがあります。

その時、四択で答えます。

1、 公務員
2、 セールスマン
3、 会社社長
4、 牧師

その時、「牧師は絶対違うなー。一体何だろう!?」と話し合って当てようとしてくれます。

「牧師は絶対に違うなー!」と言われてしまったら、「実は、牧師でーす」と答えたら、一斉に、「えーーーーー」と言う声があがりそうで、答えにくくなります。

つい先日、大会で協力して下さったある教会を訪問しました。その教会の牧師夫人は、私が20歳の時(今から22年半前)に、神学校に願書を出しに行った時に受付をしてくれた女性です。

牧師夫人の方は、「今でも菅野先生のことをはっきり覚えていますよ!」と言われますので、恥ずかしくなって、「どうしてですか!?」と聞いてみました。

「今まで神学校に入学して来た人たちとは全く違う自由な雰囲気を持っていたので、とても印象的でした。」

それは否定しません。私自身自由に生きていましたので、そのように映っても不思議ではありません。

つまりそれは、「将来牧師になる神学生らしくないキャラクター」だったということです。

牧師になった今も、それは変わらないと思います。

話は戻りますが、先ほどの懇親会で、四択で職業を答えて、最後に、「牧師です」と言いますと、やはり相当驚かれました。

その方々にとっての牧師とは、貧しそうで、やせていて、暗くて、世の悩みを一身に背負っているような悲壮感を漂わせているイメージがあるそうです。

全部逆のようです。裕福でお金持ちそうで、がっちりしていて、おおらかで、明るくて、自由で、幸せで楽しそうに映るそうです。

そんな牧師像を一体誰が作ったのでしょう。神様でないことだけは確かです。

ある時、牧師らしく見られないことで悩んだことがあり、友人の牧師に相談しました。

友人は、「菅野先生は、牧師という枠にはまらないに決まっています。神様が、菅野直基という規格で作られたのですから、牧師という枠組みは全く無視して、神様が造られた菅野直基という規格に沿って生きて下さい」と言ってくれました。悩みは一気に吹き飛びました。

それまでの私は、「『牧師』と『牧師以外の仕事』という、二兎を追うことはしてはいけない!」と考えていました。

しかし、神が菅野直基として造られた規格に沿って、三兎でも、四兎でも、五兎でも追いかけながら生きています。

私は、新宿福興教会の牧師ですが、20近くのボランティア団体に所属して、様々な仕事をしています。フランクリン・グラハム大会もその一つです。

さらに、出前牧師として、呼んでいただける場所には、どこにでも出張してきました。

中には、大会での講師として呼ばれたこともありますし、大会での音楽ゲストとして呼んでいただいたこともあります。

ある時は、結婚式の司式、葬式の司式、引越しの手伝い、先日のようにバスの運転手、外国から来られた団体の方々を富士山や箱根などにお連れしたこともあります。

病床で洗礼を授けたこともあります。マクドナルドやファミリーレストランでコップの水を使って洗礼式をしたこともあります。

友達がいない人の友達として、その人のマンションを訪問して、慰問に訪れたこともあります。

ものすごく深刻な悩みの相談を受けたこともあります。私が一言でも口外したら、大変なことになるような秘密もたくさん聞かせてもらいました。

通常は一都三県ですが、福島、岩手、青森、新潟、群馬、長野、茨城、栃木、名古屋、大阪、兵庫、広島、そして、北海道。そして、外国から呼んで下さったこともあります。

私のやっている牧師の仕事以外は、すべてボランティアです。多くの場合は謝礼や献金をして頂けますが、宗教を商売としたり、ビジネスと考えたことは一度もありません。

神様が私に与えられた仕事は、牧師という枠組みにも入っていますが、そこから大きくはみ出した仕事もあります。しかし、神様は、私を牧師にだけ召されたのではなく、私の領域を超えた仕事を与えて下さいましたので、たくさんの兎を追いかけるように生きています。

「二兎を追って獅子を得る」という題を付けましたが、聖書は、「イエス・キリスト」のことを「ユダの獅子」と呼んでいる箇所があります。

『すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」』(ヨハネの黙示録5:5)

私は、たくさんの兎を追いかけているのではなく、その向こうにおられる「ユダの獅子」=「イエス・キリスト」を追い求めています。このお方が私のすべてです。

獅子はどんな存在でしょうか?

世界最古の建造物であるエジプトのスフィンクスは、体がライオンでできています。エジプト文明では、獅子を特別な獣と考えていました。

古代アッシリアでもライオンの彫刻が多く見られます。

ライオンの持つ属性は、権力や王の象徴であり、支配者のイメージを持っています。

西洋からインドにかけては、獅子は「百獣の王」と言われてきました。

「ユダの獅子」と呼ばれるイエス・キリストは、勇ましい王の王であり、天においても地においても一切の権力を持ったお方であり、そのイメージにふさわしいお方です。

『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』(マタイ28:18〜20)

人が作った牧師像は、やせているはいいですが、貧しそうで、暗くて、悲壮感を漂わせているとうのは、イエス・キリストのイメージとは似ても似つかないのではないでしょうか。

もちろん、全人類の罪と死、病と呪いを一身に背負われました。

『彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』(イザヤ53:2〜5)

十字架にかけられたイエス・キリストが、そこまで悲惨な状態にさせられたのは、私たちの身代わりとして死なれたからです。

しかし、聖書は次のように語ります。

『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』(第二コリント8:9)

キリストは、物々交換するかのように、私たちの貧しさを引き受けられ、代わりに、ご自分が持っておられた富を私たちに与えて下さいました。

私たちは、キリストの豊かさ、キリストの輝き、キリストの愛、キリストの恵み深さを現わし、伝えていきたいです。

私は、与えられた兎を何兎でも追いかけますが、それは、ユダの獅子であるイエス・キリストを追いかけ、追い求めた結果です。

今日も、この方を追い求め、この方から目を離さないで生きていきたいと思います。

『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』(ヘブル12:2)

素敵な一日でありますように。
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