http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16152 (写真入り記事)
小学2年生の時に、担任の先生が、雨の日の体育の授業の時に次のような話をしてくれました。
「白熱したバスケットボールの試合が行われました。試合は20:20の引き分けでした。残り1秒の時に、一人の選手がロングシュートを放ちましたが、途中で試合終了のホイッスルが鳴りました。そのボールはゴールに入りました。この試合どうなったと思いますか?」
全員が黙って聞いていました。
「シュートを放ったチームが勝ちました。みんなも、最後まであきらめないでがんばりましょう!」
それからというもの、そのことで頭が一杯になって、何とか、幻の残り1秒シュートを放ちたいと思いました。
次の体育の授業の時、バスケットボールの試合は10:10で終盤を迎えますが、なかなかお互いに点数を入れられませんでした。
先生が「残り30秒」「残り20秒」「残り10秒」とカウントしてくれました。
私は、最後の1秒の時にシュートを放ちました。
するとどうでしょう。
ボールが空中にある時に、終わりのホイッスルが鳴りましたが、そのボールが見事ゴールに入りました。
クラス全体で大騒ぎになり、私はその日「ヒーロー」になりました。
心に思い描いた通りに、残り1秒シュートが決まってうれしかったことを今でも忘れられません。
私は、「何があってもあきらめてはいけない!」という担任の先生に教えてもらった教訓をしっかりと心に受け止めました。
本当に良い経験をさせてもらったと思います。
教会の働きを続けることは、時には忍耐が必要です。
特に、思った通りに進まない時こそ、忍耐が必要です。
忍耐とは、ただ黙って耐え忍ぶだけのことではありません。耐え忍びながらも、神と共に前に進んでいくことが、聖書の忍耐の言葉の言語の意味です。
牧師であり、心理学者、哲学者であったロバートH・シュラー氏は、「逆境の時にはいつか終わりが来る あきらめない人生に終わりはない」と語りました。
つらい時、私の心を支えてくれた言葉です。
しかし、本当の忍耐は、重たい荷物を背負い続けていますので、前にも進めず、耐える力もなくなり、つぶれてしまいます。
人はそこまで忍耐してこそ、キリストと本当の意味で出会えるのではないかと思います。
人がつぶれる時、それは神と出会う時です。そこまでいくためには、どうしたらいいでしょうか?
�� 何事もあきらめないでやり続けること
�� 聖書の言葉を実行すること
おそらく、しばらくしたら悲鳴を上げるか、つぶれてしまいます。
聖書の言葉を実行することは可能でしょうか?
「汝の敵を愛せよ!」ですよ。
不可能です。それができたら救い主はいりません。
もし敵を愛したとしたら、その相手はもはや敵ではありません。愛せないから敵なのですから。
敵を愛そうとしても土台無理なのですから、人は必ず神と出会います。神に出会う以外に道はありません。
神と出会ったならば、神と共にあきらめない人生を歩んでいきたいものです。
たとえ今がラスト1秒であっても、あくらめないでシュートを放つように、最後の最後まで、やるべきことに挑戦していきたいものです。
昨日、私の説教準備の日でした。しかし実際は、心が伴わず、神様に祈って、聖書箇所を読んでいるだけで形にはなりませんでした。
私の中に、語る説教が形造られないうちには、説教準備は進みません。
昨日は、最後まであきらめませんでしたが、最後は神に委ねて休みました。
今日も、他にやるべき仕事がありましたが、これが優先順位です。説教準備を第一と決めたら、その準備が終わるまでは次の仕事には取り掛かならいことにしています。
死ぬような思いをして、私の心が聖書の言葉によって料理されました。その後は、そんなに多くの時間を割かなくても準備ができました。
少し前に、大会の奉仕に専念するために、いくつもの説教をまとめて準備したことがありました。その時、準備がどんどん進んだのは、一度心が砕かれた状態になったので、次々に新し説教が生み出されていきました。
私は、最後の1人が福音を聞いてくれるまで、伝道を続けていきたいと思います。
『神様、あきらめない人にならせて下さい。』と毎日祈っています。
今日も一日お疲れまでした。また明日お会いしましょう。
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