http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16026 (写真入り記事)
今日は、ハレルヤ牧師会が5時間行われました。心通わせ、リラックスをして参加しました。というのは、会場が新宿福興教会ということもありますが、気の合う仲間が集まっているからです。これは、遠くは福島県、栃木県、茨城県、埼玉県などから集まります。
もう一つ、地域の教会の牧師が集まる牧師会があります。
新宿の地域の教会の牧師が一堂に会して集まる会は、歴史の中で今まで行われたことがなかったと思います。しかし、ここ1〜2年の間に、防災ネットワークという集まりが作られました。実質的には牧師会です。
今、地域牧師会と、気の合う仲間の牧師会の2つが行われるようになったので、感謝しています。
ボランティア活動も、地域を超えたものと、地域密着のものがあります。
地域を超えたものは、例えば、皇居勤労奉仕です。3回程参加しましたが、皇居と赤坂御用地を4日間掃除しますが、途中で、天皇皇后両陛下と皇太子殿下と皇太子妃殿下からのねぎらいの言葉を頂いたり、皇居の観光もさせてもらえます。このボランティアで、たくさんの親しい友達ができました。
地域のボランティア活動は、消防団、小中学校PTA、育成会などです。
昨日に続き、今日も地域の祭りが行われました。
牧師会が終わった後、家族で食事をし、一服してから、夜7時に消防団の詰所に向かいました。7時〜8時まで消防団のパトロールを行い、8時から8時半まで育成会のパトロールを行い、8時半から9時15分までPTAのパトロールを行いました。
3つの団体をはしごしたボランティアはさすがにはじめてです。でも、どの団体にも角が立たずに参加できたのでホッとしています。
ところで、牧師会の中で、それぞれの2ヶ月の近況報告をし合いました。それぞれの教会のある地域がまったく違うので、働きも違いますが、キリストにあって一つだなーと感じます。
「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28)
牧師会終了後には、空気が読めない人のことが話題になりました。
ある大会で、マイクを持ったら離さず、自分の肩書きや働きを誇示し、自慢して、目立ちたがりやの牧師がいるそうです。
しかし、本人はまったく悪気がないようです。牧師は基本的にお人良しで、優しい人が多いですが、口には出せないけど嫌な思いをしているそうです。
前に立つ人は、謙遜であることが大切ですし、必要以上に自分を語るべきではないと思います。
使徒パウロは、自分を自慢し、自分の凄さをひけらかす人に対して、「自己推薦」という言葉を使って、敬遠しました。
パウロ自身は、自慢することはいくらでもありましたが、自慢するとしたら自分の弱さや失敗でした。なぜそうであったかというと、そうでないと、キリストではなく、伝道者や牧師に目が行ってしまうからです。
伝道者や牧師は、キリストを伝え、キリストに仕えるように指導する縁の下の力持ちです。
しかし、伝道者や牧師が目立ちすぎて、輝きすぎたら、キリストが隠れてしまいます。そうするとどういうことが起こるでしょうか。
人々は、伝道者や牧師に頼り、依存するようになります。しかし、神ではないので、人を救ったり、人を背負ったりすることはできません。
伝道者や牧師は重荷になります。そして、それに頼る人も、単なる人だとわかった瞬間にがっかりして、つまずいてしまいます。
人々は、神と救い主を求めているのです。
神を信じない人でも、聖書に書かれているイエス・キリストが実在すると知ったならば、走って会いにくるはずです。
それなのに、自分が目立って良い思いをしている伝道者と牧師がいるとしたら、それは困ったことです。空気が読めないだけではなく、大きな勘違いです。
おそらく、身近な人がその牧師に言ってくれるのではないかと思いますが、聞かれれば、「もう少し十字架の影に自分を隠してもいいんじゃないですか!?」と言うことはできますが、祈るのみです。
そして、「人の振り見て我が身を直せ」と言われますが、「反面教師」として、勉強させてもらいたいと思います。
人間社会においても、勘違いや空気読めないことは、嫌われることの筆頭ではないかと思います。
しかし、神との関係においても、空気が読めなくては困ります。神との関係における読むべき空気とは、神の霊である聖霊様です。
「風はその思いのままに吹く」(ヨハネ3:8)
神様は、私たちの便利屋ではありません。神様は神様であり、神様は、ご自分の思いのままに働かれます。
神様を私たちに合わせてもらおうとするのではなく、私たちが、神様の霊に合わせていくことが求められています。
空気が読めない人は、なぜ嫌われるのでしょうか?
それは、他より自分に関心があるからです。だから、他の人や他の人の気持ちには興味がなく、自分が一番大切なのです。
これは、小学生の子供ならかわいいですが、大人になっても同じだとしたらかわいいではすみません。
人は誰でも、自己中心な存在ですが、そんな私たちを極みまで愛して、自己中心に固執する必要がないほどまで私たちを満たし、満足させて下さるのがキリストの十字架の愛です。
キリストの愛を受け、キリストの愛に憩い、そこで満足して、今度は、受けた愛で他者を愛し、他者を慮り、他者に仕えていく人にさせて頂きたいなーと思います。
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15:12)
生まれつき気の利く人がいるものです。反対に、生まれつき気が利かず、自分のことにばかり集中する人もいます。しかし、どんな人も、神の愛を受け続けることで、少しずつ変えられていきます。
人は、どこからでもやり直すことができます。
社会の中で、「KY」と断定された人も、「空気読めない『KY』」から、「空気読める『KY』」に大逆転することができます。
「空気読めない」と断定されることは猛烈につらいことだと思います。すごい裁きだと思います。
しかし、自分の空気を読むところから、神の空気を読むように向きを変えてスタートしたら、やがて、他者の空気を読むことができるようになります。
空気を読むとは、愛することです。相手から嫌われることを恐れて、ビクビクしながら空気を読むのではなく、相手を愛しすることで空気を読み、相手の気持ちに耳を傾けていくことが大切です。
そして、相手の心の声を聞いて、その声に対して、「神様、助けてあげて下さい!」と祈りながら、接していくならば、新しい人間関係が生まれます。
そんなことを考えさせられた一日でした。
互いに愛し合い、互いに支え合っていきたいですね。これからもよろしくお願いします。
今日もありがとうございます。おやすみなさい。
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