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2015年09月13日19:09

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「一日一シャ〈謝と謝と赦と写〉【158】 2015/9/13(日) 見て、聞いて、悟る人に」

http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16024 (写真入り記事)

日曜日は、教会に教会員や来会者を迎えて、神を礼拝し、交わり、慰め合い、育てることなどに一日を費やします。

礼拝の時間に届かなかった部分は、礼拝後に補いますが、基本は、一回の説教を通してすべてを行いたいと思っています。

教会をはじめた頃は、新しい人がどんどん集まり、人が入れ代わり立ち代わり出入りしていました。

そのため、説教には例話をたくさん使いましたし、誰もが興味があり、ニーズを持っているような主題に沿って説教を語りました。

最近は、出入りが少なくなり、教会に長く定着する人が増えて来ましたので、聖書を順番に読み、聖句を一つ一つ解説していく講解説教をしています。

講解説教は単調になりやすく、新来者にはわかりにくかったり、興味が湧かないような内容であることが多いですし、教会員も退屈しないかと心配になることがあります。

しかし、礼拝後に妻が、「今日の説教はとても恵まれた。あの人にも、この人にも聞いてもらいたかった!」と語りました。普段あまりそういう話をしないので、どうしちゃったのかな?と思いましたが、教会員の方々もとても恵まれたそうです。

中には、信じたいのに、信仰を持てないで葛藤していた方が、「これからイエス様を信じていきたい!」と、礼拝後に告白されました。

私は、これは本当に恵みだなーと感じます。

中には、聖書の言葉を解説しても、まったくチンプンカンプンで理解できないという人もいるからです。

イエス様は、弟子たちに次のように語りました。

「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」(マルコ4:11〜12)

教会に来られる方の中には、「見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らない」人もいらっしゃいます。

しかし、クリスチャンなのに、「見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らない」人がいると、胸が張り裂けそうになります。

イエス様は、ユダヤ人の王としてこの地に来られたのに、ユダヤの宗教家の多くは、見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟りませんでした。

イエス様の悲しみはどれほどだったかと思います。

わからないだけならばまだしも、イエス・キリストを十字架にかけてしまいました。

この出来事から、クリスチャンの反ユダヤ主義が生まれ、その影響でヒットラーによるユダヤ人大虐殺も起こってしまいました。

ユダヤ人は、確かにイエス・キリストを十字架につけましたが、神は、一時的にユダヤ人たちを離散させ、捨てられたかのような状態に置かれましたが、そうではありません。

使徒パウロは、「『神はその民を捨てたのであろうか。』断じてそうではない。」(ローマ11:1)と語っています。

クリスチャンが抱いた反ユダヤ主義も、「見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らない」ことでした。

聖書を理解できるというのは、特別なことだと思います。

私は、15年間神学校で学びました。神学が大切だからです。しかし、教会の権威は神学ではなく聖書です。聖書一冊だけがキリスト教の正典です。

その聖書を理解するために、どうしたらいいでしょうか?

聖書の著者は誰でしょうか?

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第二テモテ3:16)と書かれています。

聖書は、多くの年月とたくさんの人を通して書かれましたが、そのテーマは一貫しています。イエス・キリストです。

神は、人を通して、聖書を書かせたのです。

だから、聖書の著者は神ご自身です。

「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(第二ペテロ1:20〜21)

聖書を読む時に、たとえ神学であっても、人の私的解釈を差し挟むべきではありません。神に祈り、神に聞くべきです。

キリスト教の歴史の中で、反ユダヤ主義を始め、間違ったことが起こった理由は、聖書の私的解釈です。

私の友人で、いま牧師をしている人が、大学生の時にクリスチャンになりました。教会の牧師はアメリカ人の宣教師でした。

その教えを受けながら心で思ったことは、「異教の日本にいる限り信仰を守り通すことはできない。アメリカに引っ越そう!」ということでした。

祭りを含めて、日本的なものと、酒とタバコを避けなさいと教えられてきたからです。

私も、暗にそのように教えられてきましたが、神学を学びながら、自分の頭で考えるようになりました。「このように教えられてきたけれど、本当にそうだろうか?」と。

これから私は、消防団員として地域の神社の祭礼パトロールにいきます。

これはキリスト教徒としていいことでしょうか?いけないことでしょうか?

私は自分なりの答えを出しました。

聖書が禁じていることは「偶像礼拝」です。祭りに行くことは禁じられていません。つまり、祭りに行って、積極的に地域の人達と関わって親しくなりたいと思います。しかし、偶像礼拝は絶対に避けます。

今朝、ネット上で親しくしている牧師先生から、「信徒さんから次のような質問をされましたが、菅野先生ならどのように答えられますか?」と、メールが届きました。

1)クリスチャンになるということは日本人をやめるのですか?
2)クリスチャンになると日本の行事、祭りなどに参加できないということですか?
3)クリスチャンになると、そうでない人と付き合えなくなるのでしょうか?
どう思いますか?ご意見お聞かせください。

私は、「すべてNOです」と答えました。理由は前述のとおりです。

クリスチャンは、「あれダメ!これダメ!」と縮こもってしまうのではなく、積極的に出て行って、人間関係を作り、伝道をしていくべきだと思います。

「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)

食事をして、これから祭礼パトロールに行ってきます。パトロールが第一ですが、良い出会いと再会が与えられることを期待しています。

一日お疲れ様でした。良い日曜日の夜の時間をお過ごし下さい。

また明日お会いしましょう。
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