mixiユーザー(id:14075222)

2015年08月22日11:34

385 view

波乱

■【戦後70年】「小野田さんはこっちの動きすべて把握していた」 ルバング島で捜索、岩瀬匠さん
(産経新聞 - 08月22日 08:43)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=3&from=diary&id=3578200


小野田さんは志願して軍人になり、陸軍中野学校で諜報やゲリラ戦について徹底して学び、終戦の数ヶ月前にルパング島でのゲリラ戦を展開するように命令を受け、かなりの長期に渡って活動出来る位の物資と軍資金を預けられて、少尉という高い階級で派遣された。

当時の中野学校は、それは自由な校風であり、天皇に対する自由な意見や戦況に対する発言も許容されていて、その分、日本の戦況の悪さも良く把握しており、日本が負ける事は想定内だったそうだ。


それを知った上で受けた命令は、アメリカによる傀儡政権を打破するためにゲリラ活動と諜報活動を展開し、帝国国家再興のための情報を仕入れ、いつか来るはずの味方のために道筋をつけること。

…なので、傀儡政権による『終戦』発表は、この方には関係なく、唯一の目的は与えられた任務を忠実にこなす事だけだったらしい。だから、『終戦を知っていた』とも言えるし『知らなかった』とも言えるのだろう。

30年近くに及ぶルパング島の生活では、100回以上のフィリピン軍やフィリピン駐留アメリカ兵、警察との戦闘があり、その中で27年共に戦った部下を失いながらも、敵となった兵士などを30人以上殺したそうだ。。

日本政府もフィリピンからの要請を受け、たびたびルパング島を訪れ、降伏を呼びかけるなどしたが、『任務遂行中』である彼が反応することはなく、終戦から15年くらいの時点で彼は戦死したものとして扱われ、靖国神社に祀られたこともあるそうだ。

そして、投降のきっかけになったのは、小野田さんの事を知った、一般の若者の行動。

その若者は単身ルパング島に入り、いつ会えるとも知れない小野田さんをテント暮らしをしながら待っていたらしい。そして、小野田さんとの接触に成功し、少しづつ心を開いた小野田さんから投降の条件を聞きだした。

その条件のひとつ直属の上官による命令の解除。

その旨は日本政府に伝えられ、落ち合う日時を定めて、その上官の方もルパング島に入った。

小野田少尉は自分の姿を悟られぬよう、夕暮れに太陽を背に受ける密林の中から様子をしっかり確認し、そして意を決して投降した。

…尊敬するサバイバーである彼には、もっともっと興味深い話や何より反骨精神旺盛な魂もあるが、今は波乱の人生を悼みたい。


4 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する