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2015年05月20日23:03

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「一日一シャ〈謝と謝と赦と写〉【43】」

http://9001.teacup.com/sfk/bbs/15744 (写真入り記事)

今日の午前中は、静かに教会で仕事をしました。平凡に過ごすことに何とも言えない幸せを感じます。

時々、時間に追いまくられているように感じることがあります。それは、自分のキャパを越えて仕事をしている可能性があります。

牧師の仕事は人間の力を超えた働きです。

教会という場所で、普通の講演をすることは少し話が上手な人なら誰でもできると思います。しかし、礼拝で聖書の言葉を説教するのは人間ワザを超えていなければなりません。

聖書は、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」(第一コリント8:1)と書かれています。

情報が溢れている時代ですから、少しインターネットを駆使するだけで、聖書の知識を得ることは可能です。しかし、その言葉を知り、知識として人に話しても、人を裁いたり、人の心を切り刻むようなことになりかねません。

自分を棚に上げたら、いくらでも厳しい言葉を人に向けることができるからです。

聖書の言葉は、まず自分自身に適用しなければなりません。

�� 聖書の言葉の基準から外れた自分を知り
�� 罪深い自分を赦し、愛して下さる神の愛を体験し、
�� 謙遜になり、人を裁かなくなった心で語る時に、人の徳を高める愛の言葉になるのです。

牧師の説教は、自分の知識の切り売りではなく、まず自分に適用し、聖書から外れた自分と徹底的に向き合い、その只中で神と出会い、神の赦しを得て、造り変えられた上で語る時に、人を変え、人を生かし、人に希望を与える言葉となって、相手の心に届くことができます。

さらに、自分自身を神に明け渡して、神の御霊に満たされて語る必要があります。神の言葉は、神の力によって語ることで人々に届くからです。

「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリヤ書4:6)

自分の力や能力で説教をするのではなく、神の霊力で語るならば、自分のキャパを超えて疲れたり、燃え尽きるようなこともありません。

神に自分を委ねるなら、どんな大きな問題を抱えていても、大変な試練の中に置かれていたとしても、何事もないかのように平安で、穏やかでいることができます。

これは、牧師に限った話ではありません。牧師は、リーダーとして、まずお手本を見せなければいけませんが、すべてのクリスチャンが同じように、神の力によって、神の働きができますし、今日、この文章を読んではじめて神を信じた人がいたとしても、その人も、同じように神に委ねて、神の働きに参加することができるのです。

今日の「一日一シャ〈謝と謝と赦と写〉」、いきなり話がそれましたが、平凡な仕事をしながらの午前中を過ごした後、午後1時に友人と待ち合わせて、午後2時からのある集まりに誘われました。

ほかにやる仕事がありましたが、久しぶりに会う友人の誘いだったので、12時半頃、先日息子と食べに行った650円のラーメン+チャーハンを食べに行きました。先日はしょうゆラーメン。今日はミソラーメンをおいしく食べました。

午後1時ぴったりに新大久保駅の改札口に着いて待っていますが、待てど暮らせど友達は来ません。結局、45分後に到着しました。

私を45分待たせたということで、友人は恐縮そうで、私に気を遣い、とても親切にしてくれました。反対に、私が45分間相手を待たせてしまったとしたら、着くまでに相手を待たせていることでイライラし、疲れ切ってしまったと思います。だから、友人も来るまでに疲れただろうと思うので、一切咎めることなく、かえって、「お疲れ様!」という気持ちで親切にすることを心がけました。

約2時間半の集会が終わると、会場を移して、懇親会の一次会がはじまりました。講師はおいしそうに生ビールを飲み、他の参加者たちも楽しいそうです。私もその輪に加わって、楽しい時間を過ごしました。

しばらくして、「もう帰るのかな?」と思ったら、友人が、「みんなについて行きましょう!」というので、そのまま二次会になだれ込みました。

当初は、夕方6時半から消防団の訓練がありましたので、ここで帰らなければいけないのですが、分団長から、「今日の訓練は中止になりました!」とメールが入りましたので、二次会に参加することにしました。

会場は中華料理屋で、烏龍茶、オレンジジュース、ビール、カクテル、紹興酒など、おのおの好きなドリンクを片手に乾杯をしました。

私と友人は、ほんの少しだけ付き合いましたが、聖霊に満たされていると、アルコールが必要ありません。飲まなくても喜びにあふれてハイです。

聖書は、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(エペソ書5:18〜19)と語りますが、

「酒」と「御霊」を並べているのには理由があります。性質は違いますが、酒に酔うことと御霊に満たされることには共通点があります。

�� 自分自身のカラを破り、解放され自由になれます。
�� 悩みを忘れられ、楽しくなります。
�� 互いに親しくなれます。

聖書は、酔っ払わない程度の酒を推奨している箇所もあります。

「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。」(第一テモテ5:23)

「少量のぶどう酒(ワイン・酒)」と言っていますが、この言葉を、世界のアルコール好きなクリスチャンがどれだけ喜んだことでしょう。

しかし、泥酔したり、理性を失うまで飲むことを禁じています。

酔っ払った状態は、人を愛する状態からかけ離れています。「無礼講」という言葉もありますが、酒を飲まない人にとっては、失礼極まりない醜態を見せられてしまうことがあると思います。

酒の席ではケンカが起こることもあります。罪の誘惑に負けたり、様々な間違いが起こり得ます。

酒で失敗して、人間関係を壊したり、後悔したことがある人もいると思います。

ただ、聖書は酒を禁じていません。飲みすぎないことが大切です。

聖書に生きるユダヤ人は、毎週金曜日の日没から土曜日の日没までの安息日には、必ずワインを飲みます。しかし、不思議ですが、酔っ払っているユダヤ人はまずいません。酒は、神的・聖的な飲み物として考えますので、適度に飲んで終わります。

クリスチャンの中には、酒に対していろいろな見解があると思います。聖書の見解は、白か黒かではなく、グレーゾーンです。

酒を飲む人は、「酒を飲んではいけない!」と考えるまじめなクリスチャンを軽蔑したり、侮ってはいけませんし、

酒を飲まない人は、自由に酒を飲むクリスチャンを裁くこともいけないことになります。

「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。」(ローマ書14:1〜4)

通常は、二次会は遠慮して早く帰宅しますが、今日は、友人との関係があったので、そこに参加しました。

しかし、飲みながら時間を一緒に過ごし、他愛のないことを語り合いながら、段々仲良くなって行くんだなーと感じました。

毎週日曜日の礼拝で、「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(エペソ書5:18〜19)とありますが、教会で霊的な宴会を行い、歌い、賛美し、教会員がもっともっと親しくなっていけたらいいなーと思いました。

今日は、消防団の訓練が急きょ中止になったので、一次会に加え、二次会にまで参加し、みなさんと心を通わせながら楽しい時間を過ごせたことを感謝します。

牧師であることを自己紹介し、名刺をみなさん全員に渡してくることができました。

「またお会いしましょう!」と笑顔で別れました。

みなさんはどんな一日を過ごされましたか? お疲れ様でした。神様の祝福を祈ります。

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