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2015年05月17日21:20

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「一日一シャ〈謝と謝と赦と写〉【40】」

http://9001.teacup.com/sfk/bbs/15735 (写真入り記事)

今日の「一日一シャ〈謝と謝と赦と写〉」は、一日教会で神様を礼拝し、奉仕ができたことを感謝したいと思います。

日曜日に教会に来れない人のために土曜礼拝をしていますが、やはり教会は日曜礼拝が中心です。ある教会は、日曜礼拝を「主日礼拝」と呼び、ある教会は「聖日礼拝」と呼びます。

主日礼拝は、主が復活されたことを記念して、主の日を特別な日と考えて礼拝します。

聖日礼拝は、主日よりももっと特別な日として、ほかの日と区別し、いや、聖別して神様にその日を捧げます。

旧約聖書には、モーセの十戒が書かれています。神がイスラエルに向かって、十の(愛の)言葉が書かれています。十戒というと、戒めの言葉と書きますので、強く伝わりますが、中身は、神の契約に基づく愛の言葉です。

十戒の四番目の言葉に、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も― それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」(出エジプト記20章8節〜11節)と書かれています。

聖書が教える安息日は、金曜日の日没(星が1つ光った時)から土曜日の日没(星が2つ光った時)までを指します。

今までに二回イスラエルに行きましたが、二回とも安息日を過ごしました。聖書を読んで感じる安息日と、実際の安息日はえらいイメージが違いました。

聖書を読むと、「ねばならない!」という側面を強く感じますので、縛られるようで、かえって不自由なイメージを持っていましたが、実際のユダヤ人たちは、安息日を解放の日として、とても喜んで家族と一緒に過ごしています。いいなー、と感じました。

人が、神様に安息を命じられなければ、休むことなく働いてしまうことは、今の日本を見ればわかります。

昨日のビジネス講演会で、アフラック社長が、「日本人の宗教は、神道でも仏教でもなく、仕事教ですね」とポロっと話されたことが「言い得て妙(うまいこと言うなー)」だなーと思いました。

18歳でクリスチャンになってからは、必ず日曜日は教会を優先してきました。そのことで、露骨に文句を言われたこともありましたし、ある重要な地位から外されたこともありました。しかし、日曜日に必ず神を礼拝する習慣が私を祝福し、肉体的にも精神的にも安息を与え、信仰を保たせてくれました。

安息日はユダヤ人に命じられましたので、クリスチャンがこれを守る必要はありません。しかし、安息は必要です。だからこそ、日曜日の礼拝はとても大切だと思います。

冒頭で触れましたが、日曜日を「聖日」と呼ぶことがありますが、聖日という考え方は、他の日と区別し、聖別する日という意味がありますので、安息日に似ていると思います。

もう一つ、日曜日を「主日」あるいは、「主の日」と呼ぶことがあります。

これは、金曜日の午前9時にキリストが十字架にかけられ、午後3時に十字架の上で息を引き取られ、安息日なので、日没前に慌てて墓に遺体を葬りました。大きな岩が置かれて封印されていました。しかし、日曜日の早朝、キリストは死人の中から復活されました。

主日とは、主の復活を記念する日です。復活の主と出会い、先週一週間を墓に葬り、イエスさまと一緒に新しい一週間をスタートします。

日曜日が赤字で書かれているのは、キリスト教という一宗教の祭日ではなく、全人類の祝祭日なのです。この日にキリストは死を討ち滅ぼして復活されました。お祝いの日です。だから、神道であろうと、仏教徒であろうと、仕事教徒であろうと、この日曜日に安息をし、人類最大の敵である死を打ち破られたキリストを礼拝して、一週間をスタートしたら、大きな大きな祝福になると思います。

教会は、キリスト教徒でなくても誰でも歓迎します。それは、何教徒であろうと、その宗教を持ったまま来て下さって構いません。ありのままの姿で教会は歓迎します。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11章28節)

今日の朝の礼拝には、久しぶりに空港の天気予報士をしている方が来られました。この方は、仕事の関係で、月に一度くらいしか教会に来られませんが、たとえそうであっても、月一でも神を礼拝することで、信仰が保たれ、祝福されていると話されていました。

夕方の礼拝には、もう20年以上前に神学校に通っていた頃、当時大学生の男性に伝道をし、その彼は洗礼を受けましたが、私がアメリカに留学して以来教会から離れていましたが、数年前のある日、インターネットを通して私が牧師をしている教会を見つけて、教会に足を運んでくれました。人生がうまくいくようになると教会から足が遠のきますが、問題にぶち当ったたり、息詰まると教会に来てくれます。来たり来なかったりですが、それでも、彼には立ち返る場所があるので幸いだと思います。

私の友人の一人は、熱心な仏教徒の家庭で育ち、熱心に仏教を信じて生きてきましたが、ある日、大変な試練に遭われました。「彼がクリスチャンになることはないだろうなー」と勝手に思い込んでいましたが、ある日、「カンちゃん、今度、夫婦そろって洗礼を受けることになったよ!」と連絡が来ました。祈っていましたが、本気で信じていませんでした。神様は素晴らしいです。今彼は、奥さんと二人で、毎週日曜日に教会で神様を礼拝しています。

日本は、ある日まで戦争をしていましたが、天皇陛下の一言によって、平和国家になりました。そんな重大なことが、一人の人の言葉によって決まってしまうのです。

私は、ある日、日本が創造者である神の一人子イエス・キリストを、国家単位で受け入れ、信じる日が来るのではないかという気がします。「そんなことありっこないよ!」という人もいるでしょう。しかし、そうならない保証はありません。

毎週日曜日に神を礼拝するたびに、日本の国の祝福を祈ります。それは、「こうこうこうなるようにお願いします!」と祈るのではなく、「神様が与えて下さる一番いい状態になるように」と祈ります。

政治問題に基本的に触れませんが、例えば、「憲法九条」の問題に関して、ある人は反対し、ある人は賛成します。私はこの問題に対して、「反対!」とも、「賛成!」とも明言せず、「神の御心がなりますように!」と祈ります。

憲法九条が保たれても、変えられても、戦争に巻き込まれる可能性はありますし、相手あってのことですから、仮に、「日本は戦争をしません!」と明言しても、相手が攻め込んで来たとしたら、アメリカが守ってくれるでしょうか? 平和憲法は尊いものですが、神に「守って下さい!」と祈るほかありません。

みなさんで、総理大臣をはじめ、為政者たちのためにお祈りしたいと思います。

聖書は、「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」(第一テモテ2章1節〜3節)と語ります。

神を礼拝すると、自分だけ良ければいいという考え方は消えてしまいます。国家のため、しいては、全世界のために祈る心が湧いて来ます。

しかし、国家や全世界の前に、まず目の前にいる人を愛することからはじめたいと思います。

ネットの世界には、否定的消極的な情報や誹謗中傷で満ちています。人を特別視し、たたえる必要はありませんし、むしろ、人に優劣をつけることは、差別ですからそれを避けた方がいいと思いますが、少なくても、人を否定したり、悪口を言ったり書き込んだり、噂を言うことをやめることからはじめましょう。

今日の「一日一シャ〈謝と謝と赦と写〉」は、一日の出来事や考えたことを分かち合いながら、日曜日の礼拝ができたことを感謝して終わりたいと思います。

今日も読んで下さってありがとうございます。また明日お会いしましょう。おやすみなさい。

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