光明寺山城
天竜から奥地は戦国時代には、今川、武田、徳川の勢力がぶつかる地点であり
その攻防の歴史でもあります。
かつて今川義家の庇護のもとにあった光明山もやがて武田軍の勢力化に入り、
武田信玄公からの依頼で、寺の場所に城を築きたいというもし出を受けざるを得
なくなりました。とはいえ、毘沙門天に帰依する信玄公の計らいで、別の場所に
草堂を移し領地も保証してくれたという。
水窪の山城(横手城)、春野の犬居城、二俣城と、南に出る銅線の要としても
犬居城と二俣城の中間に拠点がほしかったのでしょうか。光明山は受け入れて
移転をして、そこに光明時山城が作られたという。
戦国武将たちの帰依を受けながら、今川家、武田家、徳川家と時の権力の
移り変わりに合わせて、お寺も対応してきたんですね。
「昭和レトロ二俣めぐり」にて光明山住職のお話を伺いました。
光明山は二俣から約6Km奥に入ったとことの標高540mの山ですから
山城だったのですね。
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