この時代はかなり荒れていた。
喧嘩、ナンパ、その他の法律違反な事。
何度も警察のお世話になった。
当時は、調書はパソコンではなく、紙に直接書いていた。
事ある毎に、前回までの調書も、持ってこられるのだが、それが山積みとなっていた。
警察に殴られても、何日拘留されても、自分に不利な調書は作らせなかった事と
運が良いのと、母がきちんと迎えに来てくれたお蔭で、鑑別所や少年院に入る事はなかった。
ただ、私自身が、このまま高知に住み続けたら、暴力団以外に、就職先がないと思い、1人で東京い行こうと決意した。
17歳の冬の出来事だ。
思い出した事がある。
高校の時に、無期停学になった時の中学生側の首謀者の伊勢田。
私は、後に、こいつの学校の先輩が作った暴走族の総長となったのだが。
そうなると、この伊勢田がビビっているような諸先輩方は、ウチの暴走族のメンバーのさらに後輩という構図になった。
久しぶりに伊勢田に会った時、ずっと下向いてきちんと会話できない感じだった。
イジメても仕方ないので、放置した。
ウケたのが、福岡がその伊勢田に
『おい、お前ら、元気にやりゆうがか? 調子に乗って悪さ、せられんぞ!!』
などとクンロク入れているのを見た時だった。
いやいや、土下座して謝った相手に、ようやるわ。笑
今回のタイトルが山下家なので、その当時の家族の事も書いてみる。
妹は土佐中学の受験に失敗した。
地元の中学に1年間通い、中2で、女子高の中では一番レベルの高い土佐女子中学校に編入試験で合格し入学した。
この女子校と土佐高校は、結構いろんな色恋沙汰の問題があった。
弟は、私と同じ、土佐中学に無事入学した。
そして、こんなに素行が悪くなって、ロクに家に帰らない私を、父が許す訳もない。
しかし、許すも許さないも、家に帰らないのだから、どうしようもない。
その矛先は、残された家族に向いた。
いつも、ため息ばかりで、すぐに何でも怒鳴り散らしたらしい。
私の責任だが、私も、昔の抑圧から解放されたくて、家に帰らなかったのだから、当時は、そんな事は知った事ではなかった。
夜7時に帰ってきた、妹に、『何時に帰ってきとるんじゃー!!』と、ブチ切れて、バットで殴ったり、弟が成績が悪いのは、母のせいだといって、母に怒鳴ったりする毎日だったようだ。
その中で、弟は母に、『今は我慢して。僕が何とかする』と、母を元気づけていたようだ。
そんな事を無視して、私は、妹の同級生が住んでいる女子高の女子寮などに、こっそり隠れて潜入して住んだりした。
お金ないので、そこの女の子の仕送りなどで食わせてもらい。
共同シャワー、トイレだったので、隠してもらって移動した。
楽しい生活だった。笑
私が、自由奔放にすればするほど、父親の機嫌は悪くなり、家庭崩壊みたいな感じになっていった。
ただ救いは、家には滅多に帰らないから、喧嘩にはならなかったという事だ。
とは言え、高校生になると、体力では間違いなく私の方が上になった。
喧嘩だって場数を踏んだし、負けるはずもないと思っていた。
一度、本気で父を殺そうと思って、包丁を持って行ったら家族全員に止められた。
お蔭で尊属殺人をしなくて済んだ。
今では父を尊敬しているし、何より、殺人をしてないから、今の自分がある訳で。
家族には感謝をしている。
次回からは、舞台が高知から東京に移る。
つづく
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