ここ数日、移動時間や待機時間が長く色々と考える時間が多かった。
今までの人生を振り返り、考える事もかなりあった。
少しその考えを要約して書いてみる。
私はマジョリティ(多数派)のを嫌う傾向にある。逆にマイノリティー(少数派)を好きだと思う。
黒いカラスよりは、白いカラス(アルビノ)の方がかっこいいと思ってしまう。
しかし、さらに興味があるのは、その対極の衝突だ。
喧嘩や意見の衝突には芸術性を感じる時がある。
若い時にレクリエーションとして街で格闘の実践をした(笑?)のもおそらくはそういうモノが原動力ではなかったかと思う。
まずは単純に”力でねじ伏たい!”これに惹かれ、それだけでは何も成し得ないと気がつく。
だが、さらに”力なき正義は戯言にしかならない”とも気がつく。さらに進むと”力の強弱に関係なく、行動を起こさないより起こしたほうが良い”と気がつく。
こうやって色々な衝突により”気がつく事”が一番の成長になると思う。
普段の日記で私が、強い口調で、バカにしたりした文章を書くのは、反対意見を押し込める為でも、自分が正しいと確信したい為でもない。
そもそも、最初に書いた通りマジョリティに興味のない私は、一般的に正しいとか、誰にでも認められる正義とかには興味がない。故に法律や道徳の一般性には興味が無い。
正しく生きる人間、真面目に生きる人間をバカにするつもりはない。
そういった人間が良い社会を作っていく。
ただ、私は毒性のあるスパイスとしてしか生きていけないような気がするし、あまりそういう真面目な世界に興味が持てない。そうする事で自分のアイデンティティを保っているのかも知れない。
保守派というのは、人類が暴走して滅びてしまわないように歯止めをかける存在として必要不可欠であろう。しかし改革派がいるからこそ人類は進歩してきたのも事実だし、進歩により人間はより安全で安心で便利な生活を送れるようになったというのも事実だろう。
ただ、私は本当に原始時代の生活より、現代の生活が幸せなのか?という問いに対してはかなり悩むので、改革派が本当に必要であったのか?という事は疑問であるが。
人間というのは、いったん進化したモノ、便利になったモノを退化させる事は難しい。
そういう意味では改革派、または少数派というのは、存在してしまう排除が不可能な毒なのかも知れないと思う。
私が自分の人生において、何を残したいだろうか?と考えてみた。
私は少数派擁護派ではあるものの、少数派と多数派の衝突から生まれたモノを後世に残せるような事ができたらいいなと思う。
本来、人間は動物であり、その存在意義を語るなど、無を語るような下らない話だと思う。
しかし人間は言葉をあやつるようになった時点で、自分の存在意義が分からないと生きていけないような矛盾している存在となった。
言葉とはいかに罪な発明な事だろう。
この言葉のせいで、自分の生きる意味を自分で探す事となった。
これは哲学、宗教、いろんな分野に派生した。
宗教とは道徳である。神を信じる信じないは実は大した差ではないように思う。
道徳であり、信念であり、覚悟である。
こんな言い方をするとバチがあたってしまうかもしれないが、宗教を単純に盲目的に受け入れている人は愚かであり、幸せだ。宗教とは、頭の良い人間が、頭が悪い人間でも幸せに暮らせるようにして作ったものだと、私は思っている。
しかし私の持論では、愚かでない人間が偉い訳ではない。
また覚悟がある人間というのは、自分がブレないし、根性が違う。
これは、生きるという意味では非常に強い。生きてる価値があるという存在となりうる。
ただ、一旦争いがおこると、覚悟があるので引かない。
引かないと争いは大きくなり戦争となる。
死ぬまで終わらないし、誰かが死ねば弔い(とむらい)合戦が始まる。
だから、本当はそんな覚悟、宗教、生き様なんかない方が争いは起きない。
私は信念を貫く人間になりたいと言いながら、ここでも矛盾している。
人間は矛盾だらけだ。
私は、”伝家の宝刀”のように、『その理論は矛盾してる!』などと鬼の首を取ったかの如く、のたまうタコが嫌いである。日常会話でのつっこみは私もする事もあるが、それを王手、チェックメイトみたいな使い方をするのが嫌いという事だ。
矛盾は、ゴールではない。だから、どうするか?のスタート地点だと思う。
結婚の話みたいになってしまったが、まさにそうだ。
人間は言葉を使い出した時点で矛盾した存在なのだ。
理論武装した人間など何の意味も無いように思う。
言葉や科学や常識が少し変わっただけで、何の意味もなくなる。
私は日本語以外には、日常会話程度の英語と、インドネシア語ができる。
言葉というものはその国の文化に大きく影響を受けている。
単語は直訳でもいけるが、表現方法となるとその国の人の考え方が分からないと上手くニュアンスをつかめない。
ネイティヴレベルで外国語をしゃべっている人のほとんどは、その国の言語を扱うとき、その国の思想で考えている事が多い。祖国とは国語だという事だろう。だから現在の日本語でやり込める範囲は現在の日本のみという事だ。
普遍を求める為に理論武装するのに、時代地域ともに限定してしまうとなると、すでにそこも矛盾。
所詮、言葉という限られた媒体で伝えられる事は限定されいるという事だろう。
私が日本語の文章をつかって小難しい事を日記に書くという事はそういう意味では矛盾しまくっている。
だから、ここからスタートなのだろう。
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