mixiユーザー(id:1512719)

2010年10月05日08:40

20 view

SM

マイミクのあいちゃんが何やらSM論を書いていたので、それを私流にもっと考えていこうと思う。



               <<< 心理学者であるある人の講演より >>>

---------------------------------------------------------------------------
私の中のSMの究極の形は、オスカー・ワイルドの『幸福な王子』の「つばめ」と「王子」の関係であると思います。 下手なSM小説より、ずっと美しく主従が描かれています。


『幸福の王子』あらすじ 

街の空高く、高い円柱の上に「幸福な王子」の像が立っておりました。
全身はうすい純金の箔、両の目は蒼いサファイア、腰の剣は深紅のルビー、心臓は鉛で作られていました。王子は美しく天使のようでした。

ある夜、小さなツバメが越冬のためにエジプトに渡る途中、その街にやってきて、涙を流す王子に出会います。

王子は高い円柱の上から見える不幸な人々に自分の宝石をあげてきて欲しいとつばめにに頼みます。

つばめは言われた通りルビーを病気の子供がいる貧しい母親に、サファイアを飢えた若い画家と幼いマッチ売りの少女に持っていきます。

両目をなくし目の見えなくなった王子はつばめに街を飛び、色々な話を聞かせて欲しいといいます。

そしてまだたくさんの不幸な人々に自分の体の金箔を剥がし分け与えて欲しいと頼みます。

やがて冬が訪れとともに、王子はみすぼらしい姿になり、つばめも弱っていきます。

死を悟ったつばめは最後の力を振り絞って飛び上がり王子にキスをして足元で力尽き果てます。

その瞬間、王子の鉛の心臓は音を立て二つに割れてしまいました。

みすぼらしい姿になった王子の像は心無い人々によって柱から取り外され、溶鉱炉で溶かされましたが、どうしても鉛の心臓だけは溶けません。

そして仕方なく鉛の心臓は、つばめと一緒にごみために捨てられます。

時を同じく天国では、下界の様子を見ていた神様が天使に「この街で最も尊きものを二つ持ってきなさい」と命じ、天使はゴミ溜めに捨てられた王子の鉛の心臓と死んだツバメを持ってくる。神様は天使を褒め、そして王子とツバメは楽園で永遠に幸福になった。

----------------------------------------------------------------------------

その心理学者は、有名な自己犠牲の物語と言っている。

そして

「つばめ」が「S」か 「王子」が「M」か
「つばめ」が「M」か 「王子」が「S」か。

という論議をしたいそうだ。

                     【その心理学者の意見】

分かりやすいSMといえば、 縄で体を縛る。 ことばで心を縛る。

では、「魂」は何で縛ったらいいのか? 「魂」は、愛で縛るのである。
ここから、S(愛)M(魂)が始まる。

M性が強くなればなるほど、「S」のように受け取られます。


なのでこの王子とつばめの関係は王子がM 、つばめがSという事に…

行動は主でも、心は従。 してあげたくなる。 させてあげたくなる。 それがS。

で、さらにその心理学者のSMに対する概念はこうだそうだ。

----------------------------------------------------------------------------
世間では、SとMを対等、もしくはSの方が上であるかのように考えていますが、違うと思います。 私の底にある考えは、絶対的にMが優位です。

SとMの二項対立は成立しません。

Sは一見は主導権を握っているように感じられますが、Sは真の意味ではMに隷従していると言っても過言ではありません。

SとMは、コップと水の関係に似ています。 一見コップこそが、水の形を支配しているように感じますが、いくら形が変わっても水は水で本質は変化しません。多少はコップのために変化したように見えますが…Mほど「我」の強い人間はおりませんので、変わりません。しかし、コップには入っていれば安定はできます。だからこそ、MはSを求めるのだと思います。

SMで一番必要なものはなんだと思いますか?
SMに関する知識や技術が必要ではありません。 SM経験の豊富さでもありません。
それらは時間とともに身に着きます。

SMに必要なものは「愛」です。 もうひとつ付け加えるなら「尊敬」です。

なんら普通の恋愛と変わらないのがSMだと思います。
それなのに、「SM」という言葉が一人歩きしてしまい、今の世間の訳の分からない頭のお悪い「サド」や「マゾ」を生んだと思います。
「S」として自分を磨くよりは、「人間(男)」として自分を磨くほうがいいと思います。
Sである前に人間なのですから。
「M」もしかりです。「Mだから何もしなくていい」ではなく、人間(女)としての魅力的になってほしい。


との事…。
----------------------------------------------------------------------------
----------------------------------------------------------------------------


私の見解は全く異なる。この精神学者は単なる素人さんにしか思えない。

まずは、『幸福の王子』についてだが。

この物語の自己犠牲というものについての見解は私とあきらかに違う。
自己犠牲というのは、自分を犠牲にして何かを為し得る事を示すと思うのだが、そうする行為がイヤではなく自然である場合もなお、自己犠牲と呼べるのだろうか?

そうする事が自分の生き方であり、生き様そのものであった場合、それは犠牲なのだろうか?仏教の有名な話で色々お世話になったウサギが恩返しをしたくて、食べ物がなく皆が苦しんでいる時に自ら火の中に飛び込み皆のご飯となったというのがある。

これは自己犠牲なのだろうか?それが生き方であり、そのウサギの人生そのものであるのであれば、何をもって犠牲という概念に当てはめる事ができるというのだろうか。



さらにこの心理学者、SMというのは主従関係が必要であると取れるように書いているが、はたしてそうだろうか?私は快楽を求めるが故の相互関係しかないと思うのだが。ニーズと提供、ギブ&テイクじゃないのか?

一見Sが優位とか、それは一般的に本当にそう見えるのだろうか?
実はMが優位だとか、その根拠が乏しいし、水とコップの説明もどうも曖昧というか、ファッションとしてのSMの見解臭い。

この心理学者、SMプレイをした事ないな?と感じた。
まずはやはりSMプレイというのは快楽なくしては語れないと思う。
ってか、私もこんなに熱く語っているが、私も器具を用いるような深いプレイをした経験がないのであるが…。

痛さという苦痛の中に快楽を感じる事ができるのがマゾヒストであり、相手にその苦痛を与えている事で自分に快楽得られるのがサディストだと思う。

サディズムの方がやや幼稚であり、相手が快楽を伴う苦痛を感じている時だけではなく、苦痛のみを感じている場合でも、自らは快楽を得られる場合が多い。

それはイジメや単純に暴力の持つ麻薬性などにも通づる原理であるだろう。
だから、それをプレイとして楽しむ事ができるというケースはかなり限定されると思われる。
サディストの多くは自己中心的で単なるストレス発散のはけ口であったり、幼少期のトラウマや愛情不足に起因する場合が多い気がする。愛のないイジメ的な暴力は芸術的ではない。

心理学者はSMには愛が必要と書いてあるが、愛があるのはマゾのほうであり、愛がなくてもサドは存在できる。

イジメ、過度なクレーマー、彼女を支配したいような男は弱Sと言えるだろう。
基本がワガママで幼稚な部分が多い人間が比較的そうなりやすいと思う。

それに比べてマゾヒストの方はかなり高等だ。芸術性が高い。よほど真性でないと本当の暴力を受け止める事は不可能だろう。 真性であるという事と同時に相手に対する愛というモノは不可欠だろう。微塵でも苦痛を快楽に変換できない要素があれば、それはMっぽいというだけで、真性Mではないと思う。

大体のMは快感に変換するのが簡単なような適度な痛みを求めるが、それは全然Mではないと思う。適度な快楽を与えるように相手に強制させるんだからむしろSじゃないか?ワガママな感情というモノは全てSに通づると思う。

適度な刺激を相手に与えるように指示されて、それで相手が喜ぶ姿を見て喜ぶのは逆にMっ毛があるヤツだと思う。

まさにSM表裏一体、紙一重と言われるのはこんな理由もあると思う。
また人間は一極性のみを持つ生き物ではないので、多くの場合は複雑に混じり合っている場合が多いはずだ。

サディストは子供じみたワガママな人間であり、マゾヒストは芸術性の高い特殊な愛の表現を持った知的な人間であると思う。そういう意味でも『幸福の王子』の王子とツバメは双方ともまったくSMではない。

無理に言うと、先ほど書いた勘違いしたSMプレイに似ているので、志がある方がMで、言う事をきかさせている方がSとなるの解釈は間違っているとまでは言わないが、わざわざSMを出してくる意味は理解し難い。

SMはどちらも自己陶酔の為の快楽を求める行為だと思う。それを芸術的なところまで高めていくのがプレイの醍醐味ではないのか?

しかし真性のサディズムを持った人間が個人に対する本当の意味での愛を持っているとは思えないし、真性のマゾヒストが真性のサディストを常に求めているとは思えない。

過ぎたるは及ばざるが如しか、バカと天才は紙一重とは良く言ったもんだ。
SMを極めたいと思う人間はやはり究極を求めるが、その先にあるモノは対極していないという事になるのではないか?

幼稚さやワガママさを一切持っていない究極のマゾヒストによる暴力っていうのが、究極のSの姿であるように思う。また究極のサディストが絶対に逃げる事ができない状況下で暴力を振るわれて絶望の中に見いだした快楽が、究極のMなのかも知れないと思う。

私が今までの人生で一番Mとしての快楽を覚えたのは、高校の時陸上部で限界を超えた走った時と、サーフィンでおぼれそうになって死にかけた時かな。それと自分が一家の長であると感じる時もMかも…。

Sとしての一番の快楽は強いヤツと喧嘩して勝った時とかかなー。

それを考えると私の場合は自己陶酔型だな、相手がいない。
喧嘩にしても相手に何かを与えるのではなく、自分が勝つという事しか頭にないのだから完全に自己陶酔でしかないように思う。

やはり1人でもSMプレイは可能だという事か。
0 4

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2010年10月>
日 月 火 水 木 金 土
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31