私は今までの人生、これが正しいとか、これが人間として正しく生きる道であるとかそういう事を極めようと頑張ってきた訳であるが、どうも最近はそういう理論と実際に生きている毎日とに共通感を持てなくなってきた…。
哲学的な本や、近未来の医学について書いてある本や、現実としての時間という観念について書いた本を読むのが大好きでよく読む。
血液型判断、星座占い、動物占い、理系バカと文系バカ、そういった統計学に基づくオカルト的な本も嫌いではない。なぜそうなっているのか?という十分な理由や証拠がなくても、世の中には、結果として往々にしてそうなっている事が多いからだ。
理論というのは、整然としている。統計には必ず例外はあるものの平均値は出る。その平均値に意味があると思うのは人間の錯覚であるとは思うが…。
逆に感情というのは、まるで整然としていない。なぜ喜ぶのか?なぜ悲しむのか?
それにはある程度の法則性はある。しかしたまには自分自身でもよく分からない場合、
確固たる理由がない場合もある。しかしそれを自分勝手だと言うのはあまりにも統計学的観念でありすぎるような気がする。それは平均的ではないという事に対する怒りなのだろうか?
日本人は世界の中でもかなり”皆と同じ”という事を好む人種だ。
教育にもそれは反映されており、よく”みんなやってるのに、なぜあなただけできないの?”
なんてクソバカな事をいう教師や親も多い。
人間の脳の回路は非常に複雑だと思うが、どうも単純な方向に動きたがる。
あまりにも動物すぎるのであろうか。
痛い、つらい、悲しいのはイヤ。楽しいのがいい。幸せになりたい。
人間として当然な事ではあるとは思うが、何かの条件を神様的な立場の人が放り投げた場合に、人間1人1人に起こりうる言動に法則性がある。それが大衆性として多くの人間にみられれば”普通そうだ!”という事になる。それが人間であるのであろうが、それに基づく理論というものには何の意味があるのだろうか?
理論は真。しかしそれは単に言葉遊びによる ”個人の自分勝手な納得の集合体” とも取れる。それに意味はあるのだろうか? と最近よく疑問に思ってきたようだ。
それがこうやって言葉を書いて色んな人に見てもらうという行為と、自分の本当の心との微妙なズレに繋がっているように思う。
非常に難しい。
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