思考は言語で偽装する。すなわち、衣装をまとった外形から、内にある思考の形を推測することはできない。なぜなら、その衣装の外形は、身体の形を知らしめるのとはまったく異なる目的で作られているからである。
ヴィトゲンシュタイン著/野矢茂樹訳『論理哲学論考』(岩波文庫,2003)より抜粋。
「人が想像できることは必ず人が実現できる」(ジュール・ヴェルヌ1828〜1905)
<オモちんさんよりさらに抜粋>
という哲学論考がある。これを基にして考えていこう。「蛍の住む渋谷」「鯨が泳ぐ琵琶湖」などは現実的ではなく実質上「四角い丸」と同義語となる。論理というのは言葉には出来ない。
言葉が少ない単語だけである場合にはチカラを持つ事ができるが、言葉にチカラがある事と論理として適っているという事は根本から違う。
心理を語りたいが為の言葉であるが、言葉を使うが故に真理を遠ざけてしまう。論理では人を納得させる事ができない。なぜなら真理は言葉で説明しきれる物ではないからだ。
人が言葉を使って思考をしている限り、神という存在に気づく事すらできないだろう。神の存在を説明するのに「存在」という言葉を使っている私もすでに愚かであるが…。
日本は論理を好まない。日本人は論理ではない原理を欲しがる。言語によって身を立てる覚悟のない者は、ただちに論理から離れるべきである。日本は論理を放棄してきた国であるので必ず矛盾が生じる。いやすでにその矛盾により様々な湾曲された解釈がたくさんあり、「なんでこうなっている?」「これをすべき理由は?」等の質問の答えられる大人などほんの一部しかいないし、結局は自分勝手なエゴによる回答が返ってくる。
必要なのは言葉ではないが、言葉でないと伝えられない。というロジックは何も今に始まった物ではないが、これを解かない限り次のステップへと進めそうにない。
哲学の為の哲学など不要の長物であり、もうひとつ上の次元に哲学の意義が存在していると思うのだが、私がそこに到達できるのはいつの日か…。
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