明智討伐の「最大の功労者」だったのに…戦場にいない秀吉に手柄を横取りされた織田家の"古参家臣"の名前
https://news.yahoo.co.jp/articles/f9a60d808ccd59e70563891b0b389111e29495f5?page=1
最近になって唱えられている「決戦は翌日以降だと考えていた秀吉はまだ戦場に到着してなくて、最前線に陣取っていた池田恒興率いる摂津軍団だけで勝利した」みたいな学説。
元々フロイスの記録にも秀吉遅参の話はあったのだけれども、フロイスが摂津軍団でキリシタンであった高山右近を持ち上げるために「盛った」のだろうとしてスルーされてきた。しかし近年になって秀吉が後方にいたことを裏付けるような書状が発見されて、にわかに恒興主力説が広まりつつある。
山崎の戦いに関しては、そもそも明智側から戦端が開かれたのが あと2〜3時間もすれば日没という微妙な時間帯。明智側もその当日に決戦するつもりはなくて、翌日以降に備えて軽く小突いて士気を高めておこうくらいの気持ちで始まったのではないかなと。おそらく前線部隊の独断。
が、双方ともに反撃を繰り返しているうちに本格的な戦闘に発展。秀吉本隊が到着していないため数で劣る摂津軍団は「このままではジリ貧」と積極的に前に出て、逆に秀吉本隊との決戦に備えて消極的な動きに終止する光秀本隊を半包囲することに成功。これで光秀軍の士気が一気に崩壊して、意図せずスピード決着してしまった みたいな流れだったのではないかなと妄想してしまう。
まぁ秀吉本隊がどこにいたかは置いておくとしても、勝利を決定づけたの恒興の側面機動だったのは間違いないことで、清須会議で高い席次与えられたのは当然だろう。
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