『今夜の豊臣兄弟!』信長の新たな城・安土城が完成して…
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絶対的な天下人であることを誇示するために信長は安土城を築き、同時に琵琶湖の水運を利用することで、物資や情報の両面において天下を統べる拠点として非常に適していた。琵琶湖を水の高速運用を考えた、だから長浜(北部)に秀吉、坂本(大津市で京都に近い)に明智光秀を置いた琵琶湖を道と考えた画期的なアイデアだった。
安土城の天主は地上が6階あり、地階の石倉を入れると7階で構成され4階の屋根裏部屋は外観にはあらわれないので、外観5層、内部7重となる壮大な物だった。天主は、通常なら天守と呼ぶのが、安土城の天守は「天主」と名付けた。天守閣は人が住むためのものではなく、非常時の食料や重要な資料を置いておくための貯蔵庫だが信長はここで生活。町民を招いて安土城をお披露目し入場料は一人あたり100文(およそ3,000円)で、あちらこちらに提灯を飾って美しくライトアップ。近江源氏の佐々木氏が築いた城だったが、信長が足利義昭を護衛して京都に出向いた際、観音寺城に住んでいた六角氏を攻め落として略奪した場所で、そもそも信長に永住の意図じはなかった。
秀吉が大阪に城をの様に大阪(石山城跡)か境に港湾都市とする意図をもっていたらしい。恐ろしいまでの巨額の仮住まいだが
さて1580年(天正8年)8月、織田信長は重臣であった林道勝(秀貞)、佐久間信盛、安藤守就らを相次いで追放している。林道勝はかつて信長の弟・信勝(信行)の家老であった道勝は、信長と信勝の家督争いの際に信勝側に加担し、信長を暗殺しようとした過去があり一度は許したが、宿老として存在感を高めすぎた道勝を、信長自身の天下統一事業(中央集権化)の邪魔になると判断し、過去の謀反の罪を持ち出し追放。
佐久間信盛は長期化する石山本願寺攻めにおける怠慢と無能が理由。信長の父・信秀の代から仕えた宿老であり、「退き佐久間」と称された軍事の重鎮で約10年に及んだ本願寺との戦いにおいて決定的な勝利を挙げられず、さらに信長が突きつけた19カ条に及ぶ「折檻状」で、過去の数々の怠慢や保身的な態度を厳しく糾弾され、息子とともに高野山へ追放。
安藤守就は武田勝頼や周辺勢力との内通・不穏な動きの疑い。元・美濃三人衆の有力武将だが、信長から武田氏など敵対勢力への内通を疑われ織田家の方針に積極的についてこなかった(あるいは能力の限界を迎えた)ことによる政治的な理由でになる。慶の父親の可能性は実は低く、美濃出身だけで謎の慶の父親を消すために安藤家の娘にしたのだろう。
いかに圧倒的な力を持った織田家でも、まだまだ天下統一の道は先で特に佐久間信盛も林秀貞(通勝)も全く無能ではなく、かれらは、ある程度のレベルの武将だった。林・佐久間は、信長の父・信秀の代から支えていて信長の若い頃も、よく知っていた。織田家の中での立場が重すぎた林秀貞と佐久間信盛は帝王となるのに邪魔でもあった。
尾張の林・美濃の安藤・近江の佐久間のそれぞれ支配していた地域は、織田家の本拠と京都・安土を結ぶうえで交通の要所でもあり無視できない地域で要地を直轄化、あるいは嫡男・信忠のもとに組み込むことで、家臣団と領国支配を立て直そうとした。
保守的なタイプで急進的な信長に邪魔になった可能性、家臣への恫喝だったのかもしれない。これを延暦寺を先に焼いた足利義教が赤松政則にやって復讐に殺され応仁の乱になっていくが天才肌の信長は過去をは考えなかった可能性もある
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