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2025年03月30日22:32

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吟醸酒のふるさと東広島・西条(5)

 寂れた宿場町を酒造業により発展させることを目指した和平の夢は、20世紀になる
 と花が開き始めます。街道筋にあった商家や農家が次々と酒造りを始めました。東西

 1KImであった市街地も2Kmにも広がり大きくなりました。その中で最盛期には13
 軒の酒造蔵がありましたが、和平は明治37年に66歳で亡くなります。一緒に歩ん

 できた博三もその後は病気にかかりその4年後に亡くなります。また三津の三浦仙三
 郎も博三と同じ年に亡くなりました。これらの先人の跡を継いで発展させたのが、木

 村静彦と石井峯吉そして国の醸造技手として明治31年(1901)に25歳で広島に赴任
 してきた橋爪陽(キヨシ)です。陽は青森県生まれで広島に着任してから、県の技師となっ

 て三浦仙三郎の亡き後広島の酒造りの技術向上に多大な貢献をしました。

日本酒造りの全国大会
 明治になると成人であれば誰でもが買える飲み物となってきます。名前も「日本酒」 
 と呼ばれます。政府も酒に酒税を課していますので、国家の税収を増やすためにも沢
 
 山の酒税を目論見ますが、酒造業者は規模が小さくて技術もなく酒を腐らす(腐造トイウ
 を出したりして計算通り税収があがりません。政府は大蔵省の管轄で「醸造試験所」

 を造り、その三年後から清酒の品評会が開催されるようになり、当時も灘の酒の業過
 が高い中にも広島の酒が上位に出てくるようになりました。それらは三蒲仙三郎が心

 血を注いで生み出した醸造法で作られた日本酒でした。仙三郎の亡き後も木村静彦や
 石井峯吉、橋爪技師たちが中心となってこの醸造法を高めていきました。そして佐竹

 利市が開発をしてきた検索式精米機が完成をして、高い精米歩合で酒を造れるように
 なりました。それまでの醸造技術と思われていた、灘流生酛造りを凌ぐものとして、

 広島流吟醸造りと称されるようになります。
 
 日本酒造りの学校
 明治も終わって、大正時代に入ると灘の酒を押しのけて広島の酒や同じ技法で作った
 京都伏見の酒や岡山備中の酒などが品評会で上位を占めます。この醸造法を手に入れ

 ようと各地の醸造元が広島にやってきます。そしてこの技術を身につけた三津杜氏を
 引き抜いて帰るのです。引き抜いていけない酒造家たちは、杜氏見習いにまで引き抜
 
 こうと必死です。こんな実態をなんとか辞めさせようと立ち上がったのが木村静彦を
 中心とする西条の酒造家でした。静彦は他県の酒造家たちに言いました。「あなたの

 蔵にも優秀な杜氏の卵がいるだろう。そういう若者をこちらに預ければ、しっかりと
 教えて返すから、もう広島の蔵から杜氏を引き抜かないでください」と。また、皆で

 資金を出し合って吟醸酒造りを教える学校をつくろうや」大賞6年(19017)西日本各
 地の酒造家の出資によって「西条酒造株」が設立だれて「西条酒造学校」として開校

 全国の若い蔵人を教育して杜氏の卵を元の蔵元にもどす仕組みが整いました。初代の
 好調を木村静彦が勤めました。


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