お前は何を言っているんだおじさん
「お前は何を言っているんだ」
叩きつけられた彼女の右手がどけられると…
…合鍵と指輪だけがテーブルの上に残された。
少しの間、二人は固まっていた。
…沈黙。
…その時間は、とても長く感じられた。
でもきっとほんの数秒。
シノブは立ち上がり玄関に向けて逃げ出した。
荷物をまとめた袋を左手に走り出す。
少しの着替えと本が入っている…。
「オリーブですオリーブ」
みたいな事が書かれている袋。
お前は何を言っているんだ。
きっとオリーブなんだろうよ。お前がそう言うのなら…お前の中ではな。
袋の意見はこの際どうでもいい。俺はオリーブでは無いと思うけれども。
止めろ…
止めろ。
「待てって!」
すがるように声を上げて俺も続く。
そもそも走るほど広くないし…
六畳の居室と…四畳半の和室ですし…
「悪かった!」
玄関扉の前で彼女の右腕を掴む。
「…!」
「悪かった…何もしないから」
足を止めた彼女は俺を見た。
必死に食らいつく俺を睨むように…
いや…
目には涙が溜まっていて…
強い意志を持って俺を見ているけど…
睨んでなんか…いない。
強い目で…でも悲しそうな顔で…俺をみている。
…綺麗と言っていいだろう。
3年半付き合っていて、こんな表情は初めて見た。
「待って…」
俺の声はもはや哀願。
「…うん。待つ…」
ほんの少し、表情をやわらげて…
彼女は手をつなぐみたいにそのまま…俺を壁際まで連れて行き、壁に背を当てた。玄関ドアと下駄箱の間。
逃げようとは…しない。
でも…扉まではほんの一歩。
「ごめん…」
「うん…」
話が終わるまで、きっと彼女は逃げないのだろう。
…信じられる。
この信頼に…何か意味はあるのだろうか…。
でも
この扉を開けて彼女が出ていったら…二人は終わる。
それだけは…分かる。
その後は…
【他人】
に
な
っ
て
し
ま
う。
俺はその部分だけは分かるよ。
俯く彼女を逃さないように。
左手を壁について、シノブと扉の間を塞ぐ。
…。
和室の電気は消えていて、洋室から漏れる白い光に彼女の顔が照らされている。
「ごめん…」
「…うん」
何を話したらいいのか…
もう万策は尽きている…彼女を翻意させる為の言葉をどれだけ尽くしても。
もう…届かない。
届かないんだ…。
…。
「…重いね」
沈黙を彼女が破る。
「ん?」
「ドア…」
アパートの扉が、彼女には重いらしい。
薄っぺらい扉だ。
外からコンクリートで固めておけばよかったと頭をよぎる。
本当に無能だ…俺は。段取りが大事なんだよな、こういう時は。
彼女が部屋に入ったらベランダを開けて外に出て扉をコンクリートで固める。
そしてベランダから部屋に戻って彼女を説得すれば…首を縦に振るまで逃さなければ…。
捕まるんだろうな。色んな罪状で。
そんな妄想が頭をよぎる…が、ニヤけている場合でもない。
「ずっといればいいじゃん」
別れる必要なんて、ないだろ?
「…。」
彼女は答えない。
「俺が一番シノブを大切に出来るって言ってくれたじゃん」
彼女にとっての正解は【俺】の筈だ…。そうだろ?
でもきっと「間違っちゃいけないの?」て言うんだろうな。
シノブは俯いた顔を俺に向けて
「つぎの彼女を大切にしてあげて…」
とだけ微笑む…そしてまた…俯く。目に涙ためて何言ってんだよ…。
「あぁ…」
返事なのか溜息なのか自分でも分からない声が口をつく。
…言う通りにする…。
…お前の言う通りにする。
約束する…大切にする…
だけど…だから…
「俺はお前を大切にしたい…シノブを俺の手で幸せにしたい…じゃなきゃ意味ない…」
壁に当てた左手の指先が少し震えた。涙が出てきた。
…届かない…気持ち…言葉…。
こんな事…付き合ってた時に伝えた事無かった…。考えもしなかった…
…ずっと一緒にいるのが当たり前だと思っていたから。
…結婚しようとか言ったことがあっても、そこまで真剣な話ではなくて
漠然としたもので
ちゃんと考えなかった事…言わなかった事を後悔しても…伝えても…
今更なんだろう。
でも
伝えなければいけない…
この手を離したら、彼女は消えてしまうのだから
なんて言ったら彼女は受け入れてくれるのだろう。伝わるのだろう。
「…」
言葉を出せないでいると彼女は顔を上げた。
「幸せ…だったよ」
涙ためながら必死で微笑もうとする様な、そんな顔をして…。
「ずっと…あなたに出会って…大切にされて、幸福だったよ」
大きな瞳から涙が溢れはじめる。
「こんな幸せな時間は二度とないって…思うぐらい…」
ボロボロと流れる涙に言葉を詰まらせる。
なんでだよ…
別れる必要なんてないだろ…
「ずっと…あなたに大切にされて生きていくんだって思ってた…死ぬまで一生一緒で…いつか子供たちに囲まれて…どちらかが先に死んだら、それが貴方ならすぐに後追って死んでもいいって…」
お前は何を言っているんだ…
お前は…何を言っているんだ…
もう言うな…
止めろ…
彼女の言葉を遮らなければいけない…
「結婚しよう」
二人で暮らそう。お前以外要らないから…。
俺の言葉に彼女は微笑んでみせる。
「一緒に死のうよ…」
…?
「…じゃあ続けよう?」
シノブは首を振る
「それは出来ないよ」
お前は何を言っているんだ…
「俺と別れてあの人と付き合ったって…うまくいかないって分かってんじゃん」
それでも行こうとするわけが分からないよ…
「彼がいなくなっても…1人で生きていける様に強くなるって決めたから」
呟くようにシノブは告げる。
…なんだよそれ…お前幸せになれないじゃん…
勝手だろ…
勝手すぎるだろ…
須坂から春日部まで毎週帰ってきた。
それでも寂しいっていうから会社も辞めてきた。
そしたら別れて、1人でも生きていける様に強くなるとか…
勝手だろ…。
お前は何を言っているんだ…
そんなやり取りを…何回繰り返しただろうか。
俺は…彼女の手を離したみたいだ。
信じ難い事だけど
きっと…俺は諦めたのだろう。
今現在…あの夜は終わっているのだから。
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