元祖 HImaP&Σ (ハイマップ(ひまぴー)&シグマ(総和会)) 渡部学(ワタナベマナブ)。
2025年(令和7年)、1月26日(日)、日本時間、AM9:38
、北海道紋別市。
HImaP&Σ は渡部学が創設者であり、屋号としてます。
団体や宗教、反社会的勢力や会社などではございません。個人活動家であり、営利目的での活動はSNSではしてません。
記憶でしか証拠はないですが、HImaP&Σは渡部学が作ったものであります。
H 暇な I 今を m 学と a 遊ぼう P プロジェクト
ハイマップとは 高いところから見る地図つまり、人々の全体全容を意味してます。
総和を意味する Σ
呼び名は二つ ひまぴー(暇プロジェクト)とハイマップ。
また西村ひろゆきさんのYouTube切り抜き動画にて。
学校では教えてくれない無能について。
実に面白い。
質問者、相談者について解説した動画なんだけど。
それが実に良い内容でね。
西村ひろゆき氏は。無能である人間はたくさんいる。
そして、無能であることを自覚しなさいって言ってる。
渡部学はもう正論だけど、ガシャーンっと固定観念をまた一つ覆った。
そうか、無能の自覚すればいいんだ。
渡部学もかくいう無能な一人であり。その自覚こそ、自分自身の一種の開き直りを生む。
そして、ひろゆき氏はこうも言ってる。無能は無能だが、無能がいないと有能な人は比較されず光輝かない。
だから無能ってのは引き立て役に必要なんだと。
遠回しに激励してる。そうアシスト役になる。
しかも、無能だから期待されない、能力が上がることもない、成果も出せない、何も望めない。
だけど、性格までネガティブや陰湿な性質になる必要もなく。性格がポジティブで明るく、ムードメーカーになれるんだよ。必要とされる人間になれる。そう遠回しに性格が陰湿になるのはさらに無能中の無能だから、妬みや僻みなど持たない方がいいよって言ってる。
だからとって無能中の無能で居ても無能を雇ってくれてる会社はとてもホワイトだから大事にしといた方がいい。
そう言ってる。目にうろこだ。まじ、この人凄い、心を軽くしてくれる天才かと思って話聞いてた。
淡々と事実を言ってるだけだが、実に的を得てる。
そして、渡部学は無能であることを自覚したくなかったけど。自覚するって大事だよね。
無能であるがゆえの努力ってある。
無能の自覚って必要だよね。開き直りと言えば開き直りだが、良い意味でさ。自分自身への過度な期待と希望は一切捨てることで逆に自分自身の能力値を知った上で、さらにそこからがどうして生きるか?
ここが分かれ道。開き直り意固地になり、いじけてしまい、性格も思考も歪み、陰湿、陰険になり、ネガティブになんでも考えてしまうのか?
無能なバカと悟りながも、ポジティブに明るく愛される人間を目指す。目指すけど、自分自身は無能だから過度な自分自身への期待もしてないけど、自分自身が大好きであるという生き方。
ここって無能としての自覚してからの分かれ道だと思う。
まーなんか人によっては反論や反感を抱く人もいるけど。
西村ひろゆき氏の学校では教えてくれなかった、無能な人間に関して。
奥深いよね。無能な人間は自分自身よりさらに無能を見つけることとか(笑)そして、自分自身が上だと内心安心するとか。
言葉や意味合いや伝え方ってのはあるとしても、どうその話を受けとるか?受け取り人がどう判断してその話を受けとるのか?ここも重要なわけ。
ひろゆき氏何いってんだ。酷い、最悪って受けとる人もいれば。
俺のようにポジティブに納得する人間もいるわけ。
客観的に無能である自覚ってそこなのよ。
無能であるがゆえにどこまでもポジティブに生きるか?
無能に自覚さえなく、無能な自分自身を認めたくないがために、過度な自分自身への期待は自分自身を苦しめ、さらに性格も性質も陰湿な人間で妬み、僻み、辛み、反感、反論、相手を否定から始まる。
こういう人間になって得はない。
だが、しかしひろゆき氏は無能である人間が無能であることに気付けないとしても無能だから仕方ないよね。
だから、そのままでいい。
そんなニュアンスもあるように思う。
但し、ひろゆき氏が渡部学は全く俺の言ってることと意味が違うよってなっても。
受け取り方は受け取る人の自由だから。
結果はひろゆき氏の切り抜き動画の内容にインスパイアされた。
渡部学の持論ってことにもなるわけ。
しかも、渡部学はこの動画で自分自身が無能の自覚を持つべきってことにかなり感銘を受けた。
無能であるがゆえの自分自身を全て認めることから始めると心が気楽になっちゃったかな。(笑)
ポジティブの基本、バカだ。だってバカだもん。
無能だ。だって無能だもん。
自分自身の心の中で最強の肯定感と逃げ向上が出来上がる。
だって、しかしと言う人間が悪いという世論はどこにでもある。能力は上げられるとか、有能さはそこだとか。
美談としてずっと刷り込まれ、そうしたらいけないんだと言う概念が自分自身の劣等感に繋がる。
劣等感あってこそ活きることも中にはあるが。
固定観念に縛られ刷り込み意識に知らずに感化され。
【そうじゃないとだめだ】【こうしないとだめ人間】だと。
そういう固定観念のルールを持ってしまうと、そこに同調して生きても、柔軟性が欠けると、その固定観念が自分自身の劣等感を生む。
有能であることがどこにも大事である。
仕事出来る人は有能である。
仕事の成果を出して功績を上げる人間は有能。
有能であることにもう意識が囚われてしまって。
有能であることに固執して、自分自身を過大評価し、自分自身は有能であるがゆえという意識から。
無能な人達に教えてあげるみたいな上から目線にも成りかねない。
とは言うものの、渡部学は常々思う。
そういう自分勝手な自分史上主義こそ、幸せであり、自分自身の肯定感強いほど、頑固であるが、上から目線であったりもするが。
自分自身が幸せであらねばこの世の中は面白くないわけよ。
身近な人をもっと大事にすれとかいうけど。
もっとも身近な人間は自分自身だから。
自分自身が幸せであればいい。
別に悪事をしてなければ。悪意や害意や敵意はそれほど持たず一過性の執着心で終わるなら、平和もんでさ。
あとは自己中心的思考で生きても自分自身が幸せを作れる何かを整えていればいい。
人間の美談で言えば、人を思いやり、自己中心的でなく、協調性を持ち、優しさがあること。
それは確かに有能であると思う。
だけど、その美談意識があるがゆえにそこに固執してない?
そうであらねばならない?誰が?なんで?そう決めた?
だからと言って悪事を擁護したり、悪いことをしてもそんなルール関係ねーとかいう話でもないからね。
生き方の分類するならそこで分かれ道があるけど。
別に悪事をしてなくても、人間には合う人、合わない人が居るし、理解者と理解してくれない人と分かれる。
合わない人と別に関わる必要がない。相手が関わらないでほしいというより、自分自身がフェードアウトすればいいだけ。自分自身から離れて関わらなければいいだけ。相手は相手だから相手の自由だが。こっちも自由だから。
但しこれも、善良な人間だけの話。
悪質な悪癖ある人は攻撃性が高いゆえに、その策略や悪癖や悪質な思考と行為が幸せに繋がるために、人に被害を省みず、自制心なく悪事を執拗に人に関わりしてくる。そういう性質の人間は例外。
そして、性質が違うけど善良の中の善良でかなり稀な純粋無垢な人間は、案外無自覚に無頓着に人と関わり続ける。
全く違う性質の二極が同じ行為を持つこともある。
そういうことも知る。ただし性質は全く真逆。
ってなことで。話それましたが。
無能であるがゆえ、無能として生きるとしても。
その後の自分自身の考え方と生き方で変わると思う。
学校では教えてくれない渡部学の講義でした。
今一度、大人がこういうことを勉強するべき。
肉体は成長し大人だが、精神が子供のままである。
それが善良で純粋無垢ならいい。
ただし、正しく大人としての考え方も持つともっと人生が楽しいと思う。
ハイマップ&総和会
HImaP&Σ 創始者 渡部学より。
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