山口・岩国市議5人、吉川広家の銅像を建てた団体に最高10万円寄付で公選法に抵触か…「議員であること頭から飛んだ」
https://www.yomiuri.co.jp/national/20231116-OYT1T50083/
>政治家の選挙区内での寄付を禁じた公職選挙法に抵触する恐れがあることから、寄付金は5人に返還
>5人のうち3人が10万円、1人が1万円、残る1人が2000円を寄付
建てた団体の会長は柏原伸二なので、多分 岸信夫→信千世の後援会長で、カシワバラ・コーポレーションの社長だった人。公職選挙法に引っかかることくらい分かってそうなものだけれども、細かいところまでタッチしてなかったのかなと。
吉川広家なのだから弁当食ってる像の方が良かったのではないか…と思ったのだけれども、いちおう広家は「日本槍柱七本」だったということで、槍を持たせたということらしい。
日本槍柱七本は、秀吉お得意の「大名家臣の褒め殺し」の一つ。大名家の重臣かつ槍の名手7人を褒めたもの。
・本多忠勝
・後藤又兵衛
・直江兼続
・吉川広家
・島津忠恒
初代薩摩藩主の島津家久が、家康から偏諱を受ける前の名前。家久だと豊久の父ちゃんと名前がかぶるので、便宜的に忠恒と呼ばれることが多い。「豊臣政権かで義弘は義久から家督を渡されたのか」というのは定番の議論の一つだけれども、義弘の息子である忠恒が家臣扱いなのだから、やはり正式には家督を渡されていなかったと見るのが自然だろうと。
・小野鎮幸
立花宗茂の重臣。嫁さんが立花道雪の養女。関ヶ原で宗茂が没落すると、代わりに領主になった加藤清正に仕えて、宗茂に仕送りしていた。宗茂が大名に復帰する前に亡くなったが、子孫は宗茂に仕えた。
・飯田直景
加藤清正の重臣。賤ヶ岳で加藤隊の先鋒だった槍の中の槍。清正の息子・忠広が改易になると、黒田長政に召し抱えられた…というウィキペディアの記事なのだけれども、忠広改易が1632年5月で 直景死去も1632年と書かれているわけで、黒田に仕えたのは数ヶ月というところだろうか。なお改易された忠広は庄内に流されて、余生をエンジョイした。
今まで「やりばしら」と呼んでいたのが「そうちゅう」でビックリした。
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