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2022年10月08日19:12

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「 猪木寛至 を 悼む 」

アントニオ猪木さん「最期の言葉」続編公開 死去10日前に「ありがとう」 サプライズで「ガリガリ君」食べるサービス精神も
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=7138530
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昭和ポンコツ少年のまんもちゃんにとって、アントニオ猪木は
昭和のヒーローの一人だった。

「巨人・大鵬・卵焼き」の時代に生まれ育ち、少年期には馬場・猪木、ON、
釜本、輪島公一、沢村忠、大山倍達等スポーツヒーローの観戦の機会に恵まれた。

アントニオ猪木を語るのは、日本のプロレスを語ることに等しい。
まず、「プロレス」という言葉を出した場合十人中九人までが、
「ああ、八百長でしょ?」と口にする。私はそこでソノ人を判断する。
一寸、考えてみて欲しい。
興行として格闘技を「殺し合い」で見せていては毎日何人の死人を出せばいいのか?
ここは古代ローマ時代のコロセウムではないのだ。プロレスや総合格闘技の選手は
「グラディエイター(奴隷の拳闘士)」ではない。
ココは現代法治国家の日本である。
そういう人々は、ちょっと考えれば理解りそうなことを少しも考えない。
恐らくそういう人は夜の巷、お姐ちゃん方を指さして
水商売の女の人はみんなヤらせてくれるんでしょ?
そう考えてる短絡で幼稚な人々だと判断する。
ソレは、ソレとして、世間には知らなくてシアワセなこともあるだろうし、
大人の思考を持たない人に対して敢えて他人んさんのポリシーには棹差さない。

それでは、「八百長」でなくてなんなのか?私は、「相撲に似た格闘技興行の一種」
と考えている。近年相撲でも長年タブーであった「勝ち星の部屋間や関取間の貸し借り」や、「バーンと頭から強く当たって後は流れで〜」的な一種のストーリー性が
暴かれてきた。勿論それだけではなくて大部分はガチの真剣勝負だろう。

ソレと同じプロレス用語が『 ブ ッ ク 』である。
コレは本のBOOKではなくブッキング、すなわち試合興行を成立させる要件。
大まかな試合の流れの打ち合わせ、ルールの申し合わせのことである。
で、無ければ、試合も成立しないし、成立したとして「 殺し合い 」に
なってしまう。
その、「ブック」の対極の言葉が『 シュート 』
所謂、ガチ、真剣勝負という意味である。
じゃぁブックは真剣じゃないか?というと、ブックこそ真剣にヤらないと
自分は勿論、相手も大怪我して最悪死んでしまう。格闘技に限らず
仕事全般に言えることではないのだろうか?
コレが『 興 行 』というお仕事である。

もう一つ、『 ギミック 』というプロレス用語がある。
コレは、技巧とかいう意味合いではなく、そのプロレス選手のリング上での
性格付け、演じるキャラクターの様なもので、主として『 二つ名 』として
リングネームとは別に表せられるキャッチコピー的なものである。
例えば、『燃える闘魂」アントニオ猪木、インドの狂虎・タイガージェット・シン、
動く一人『人間山脈』アンドレ・ザ・ジャイアント、『鉄の爪』フリッツ・F・エリック
「不沈戦艦」だの「人間発電所」だの、「吸血鬼」「白覆面の魔王」だの
枚挙に暇がないw

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まず、「 力道山 」ありき。戦後昭和の国民的ヒーローであり、
日本プロレスの創業者。日本のプロレスの父である。
力道山という人は角界の名門・二所ノ関部屋で関脇まで登った人で
ガチの張り手で人気は高かったが、ある日勝手に断髪してプロレスに
身を投じた。原因として彼は戦後のドサクサで密航してきた北朝鮮人で、
関脇以上大関には登れないと言われたからとされる。
その後の高見山、小錦、曙、武蔵丸の時代を経てモンゴル勢の現在と比べて
当時は外人に対して門戸が開かれない前近代的な時代のおはなしである。
それが、数年後街頭テレビのお陰で、国民的ヒーローにまで上り詰めるのだから
大相撲協会にとっては、なんとも皮肉で苦々しいことだったろう。

1960年、まんもちゃんの生まれた年に、2人の新人が入門する。
後の日本プロレスの長男、次男として袂を分かつ運命の二人。
それが、馬場正平と猪木寛至である。

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同日入門、同日デビューの同期ながら、二人の環境や待遇の隔たりは
月とスッポン程違った。馬場は早くから米国に武者修行に出され、
英才教育、興業の帝王学を学ばされ、既に日本プロレスの跡取り・惣領息子
としての位置付けだった。片や猪木は、ブラジルで拾われた子。
力道山の付き人として「オイ!顎!」と呼ばわれ毎日殴られる生活だったという。

また、ある日クルーザーに乗せてやると
言われついて行くと、女の子とイチャイチャしていた力道山が急に
シッポリとよろしくS〇Xしたくなったので、お前降りろ!といわれ
東京湾のド真ん中から放り出され、タンカー行き交う東京湾を泳ぎ切り
川崎辺りに漂着し、後は電車賃も無いので歩いて東京まで帰ったというw

しかし、日本でのTVデビューは何故か、猪木の方が早い。
ある日力道山から呼ばれ、「お前テレビに出してやんよw」と言われ
喜んでスタジオについて行くとなんか妙チキリンな恰好をさせられ、
カメラの前で力道山と主人公からマヂでボッコボコにされ、
「オマエ、明日からリングネームは「死神酋長」なw」と言われた。
日本初のマスクマン?であり、後のタイガーマスク、獣神サンダーダイガー
に繋がるメディアミックス的売り出し手法ではあるが、、
次代には五十年早かったw

猪木的には当時この事実は不機嫌になるほど、嫌で嫌でしょうがなかった
『 黒歴史 』ではあるが、
後に佐山聡選手が初代タイガーマスクになることを引き受けるに当たって
猪木にコノ話をされてはNOとは言えなかったと語っている。



ブラジルで拾われた子、猪木に対して馬場は、入門時既に肩書があった。
元巨人軍投手。中学まで軟式野球をやっていたが、高校時代、新潟の赤貧の
農家の生まれであった馬場正平は、特注の十六文スパイクが買えず硬式野球を断念した。
しかし、教師や学友のカンパで念願のスパイクを購入して晴れて硬式野球を始めた。
そこを巨人軍のスカウトの目に留まり職業野球にスカウトされた。
彼は、なんと硬式のボールを握って僅か3か月でプロになったw

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巨人軍の多摩川2軍のイースタンリーグの試合では
二年連続防御率1位の成績を残すものの、1軍の試合では
パッとした結果はでなかった。そりゃそうだ罠、なんせ
硬式球を握って僅か3か月だものw
投手としてのスタイルは、2mの長身の真っ向から投げ下ろす
直球だが、さしてスピードは無くなんかモッサリとした投手だったといわれる。
だが、当時の野球名評論家・小西得郎は、
『 馬場なんかはドジャースのベロビーチキャンプにでも参加させて
 ピッチングフォームを改造して、変化球を覚えればモノになるんじゃあないかなぁ 』
と語っていたという。

世が世なら、SHOHEIオータニサンのより50年早く、SHOHEI・馬場さんが
大リーグを席巻して、、無いか?ないよね?w

だが、その妄想は数年後実現する。舞台はメジャーリーグではなく、
ニューヨークのマジソンSQガーデン、WWWF(現在のWWE)の
マットの上でだが、、、

サム・マクマホン(現在のWWEオーナーのビンス・マクマホンJrのお爺さん)の目に留まり、
人気が出てメインイベンターとして破格の扱いをうけるようになった。



グッド(上向き矢印)上記動画の試合も、日独枢軸国・敗戦国選手同士の試合ながら、
ハンス・シュミットは、「シュミット流バックブリーカー」を編み出した
一流の正統派レスラーであり、同じドイツ人レスラーとしては、神様カーツゴッチ
に次ぐ格のあるレスラーでその後招聘され度々来日している。

当時の日本人レスラーは例外なく悪役として、高下駄、膝パッチ股引スタイルに
裸足という、ジャップというギミック。グレート東郷一門のヒール(悪役)
でデビューさせられていた。アマレスのハロルド坂田(007のゴールドフィンガー)
サンダー杉山(東京五輪アマレス重量級代表)アニマル浜口に至るまで
全てトーキョー・トムとかトーキョー・ジョーとか名乗らされていた。

下記に比較として同時期に渡米していた国際プロレスのサンダー杉山の扱いの
動画を見てみよう。バッド(下向き矢印)



ヒール・JAP(悪役)としてではなく、さりとてベビーフェイス(善玉)でもなく
別枠のギミック。「二つ名」は「キラー・馬場」「東京タワー男」
「TOKYO・SKYSCREIPER/摩天楼男」、東洋の巨人などである。
差し詰め、後に来日する「アンドレ・ザ・ジャイアント」的な扱いだろうか?

兎にも角にも、力道山の目論見通り2m9cmの巨躯と存在感は世界でも認められ
メインイベンターとして世界チャンピオン・バディ・ロジャースや、「人間発電所」
ブルーノ・サンマルチノ、マジソンスクエアの帝王・アントニオ・ロッカらと
名勝負を繰り広げ高額なギャラを稼いだのだが、、

日本での「日本プロレス」の興行収入や放映権料は、力道山や吉の里、遠藤幸吉ら、
無能なごく潰し腰巾着幹部共の派手な遊興費に使われ、外人レスラーのギャラや招聘費は
馬場の血と汗で稼いだギャラを前借して使われていたのである。その仕送りは
挙句の果ては踏み倒された。
馬場は、米国時代相変わらずブロンクスの安宿に泊まり、安っすいダイナーの
ハンバーガーを口にするステーキとは無縁の生活を送っていった。
ブロンクスやスパニッシュハーレムのチンピラにカツアゲされることもあったが
財布を見せるとスッカラカンで反対に同情されたり、奢ってもらったことさえ
あったのだという。

そして、運命の日はやってきた。『(プロレスの)チチ死ス、スグカエレ 』
巨星堕つ。力道山がヤクザに腹を刺され死んだのだ。
馬場が危険なブロンクスのNYマフィアにすら同情され奢ってもらっていた頃に
安全な日本の赤坂のキャバレーでヤクザに刺されて死んだのは何とも
皮肉な話である。

馬場と猪木二人は異口同音に師である力道山に良い思いではないという。
馬場:『 人として何一つ良いところのない人でした。 』
猪木:『 付き人の三年半、殴られてばかりの毎日でした。何一つ
     アノ人から、学んだことは無いです、、、』


力道山の死後、紆余曲折あり、日本プロレスに馬場と猪木の時代は来たが、
コノ日本プロレスの長男と次男坊である馬場と猪木の人生に影を落としてゆく。

片や、惣領息子として日本プロレスの屋台骨を十字架の様に背負ってゆく定め
片や、次男坊として家を出て、徒手空拳を元手に新しい格闘技世界のフロンティア、
新しいプロレス団体のパイオニアとなる定め

二人が袂を分かつのにそう時間はかからなかった。

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その後猪木は十数億の借金を負ってまでモハメド・アリと対戦して
世紀の凡戦とまで揶揄されるが、、
その代償に得たものは現在の猪木のテーマソング、『アリ・ボンバイエ』
(アリよ、その者を亡き者にせよ)ザイール語/ヤっちゃえ!アリ)
だけだったが、ちゃっかり終生己のギミック『燃える闘魂』のテーマソングにした。
現在は転じて『猪木のテーマ』であるが、そもそのもの意味は
『イノキ・ボンバイエ』はヤっちゃえ!猪木!である。
これはNISSANさんもビックリ、苦笑いだろうw
猪木・アリ戦は『燃える商魂』猪木の覚醒だったのかもしれない。
その後猪木は、新間寿と共にタッグで異種格闘技路線の荒波に漕ぎ出してゆく。
猪木と新間寿、石原プロの小林政(通称コマサ)、スタジオジブリの鈴木プロデューサー
は、昭和から平成にかけての三大プロデューサーである。



猪木と馬場、犬猿の仲であるとも兎角世間で囁かれる
興行師として商売敵であり、ライバルであった2人。

新弟子時代は一杯のラーメンさえ分け合って喰った兄弟の様な若き日。
実は昔と変わらず、馬場が死ぬまで仲が良かったとも巷間伝わっている。
会えば寛ちゃん、馬場さんと呼びあい
ゴルフの話に興じたとされる。

馬場と猪木が最後に交わした言葉が
『 寛ちゃん、、お前はいいよなぁ、、、』だったとされる。
まるで、惣領息子の長男坊が、次男坊の自由奔放さを羨むように。

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馬場の追善試合に招かれた猪木は一人だけ追悼のリングに上がらず
リングの下から追悼の弔辞を読んだ。
それは、家を出て行った次男坊が二度と本家の敷居を跨がない
土足で馬場が守ったマットの上を汚さないという。
お互い興行師・プロモーター同士の矜持だったのかもしれない。

力道山から何一つ学んだことが無いと言った猪木ではあったが
興行師のほかに後年実業家として、アントンハイセルという
今でいうバイオマス燃料事業に手を出したり、タバスコを日本で
始めて輸入してみたり、力道山張りに事業に手を出してみたり、
また政治家として、力道山の故郷『 北朝鮮 』に33回も訪朝して
国交の回復に努力した。本当は、力道山が故郷北朝鮮に残してきた
妻子を見つけ援助するためだったともいわれる。


柔道のウィリアム・ルスカ、ボクシングヘビー級のチャック・ウエプナー、
空手のモンスターランバージャック、20世紀最強の伝説のボクサーモハメド・アリ、
これまた伝説の最強一族アクラム・ペールワン(マハラジャの秘儀、インドレスリング
(現在のパキスタン)グレート・ガマの門下一党)
極真カラテ、ウイリーウイリアム戦
神様ゴッチ戦、鉄人ルーテーズ戦、人間風車ビルロビンソンと
その他、ボブ・バックランド、アンドレ・ザ・ジャイアント
スタンハンセン、タイガージェットシン
ハルクホーガンと枚挙に暇がなく、
名勝負は数あれど
最後に、まんもちゃんが選ぶレスラー猪木としてのベストバウトである。

当時の欧州のシュートスタイルNO.1の強豪と現地西ドイツで戦った
シュトッドガルドの惨劇と呼ばれる
猪木・ローランボック戦を見て供養としたい。

猪木、R・I・P  
天国で、G・馬場とゴルフ談義でも、心行くまで
楽しんで呉れ・・





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