
〈7/31(土)本日の一言メッセージ+動画+α〉
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/22174 (写真入り記事)

「祈りとは何か!?」
辞書には、「祈りとは、神ないし神格化されたものとの意思の疎通を図ろうとすること」と書かれています。
聖書が語る祈りは、「神との交わり」です。それは、「自問神答」することです。これが人間本来の生き方です。
しかし、祈らないと、「自問自答」をすることになります。「自問自答」とは、自問に対する答えを持っていない自分で無理やり答えを出すことです。
実は、これが人間の悩みの原因なのです。
答えを出すのは「神」なのです。神でない自分が答えを出すことは、自分を神とする「自己神格化」につながる行為です。
人間は、神より少し低く造られました。この地位に不満や不足があるでしょうか?
「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました」(詩編8篇5節)。
神より少し低い地位とは決して低くはありません。「この世の王」です。
しかし、悪魔の誘惑に負けて、「この世の王という地位」と「神ご自身」を捨てて、「悪魔を神」とし、「悪魔の奴隷」となりました。
人は本来、罪や悪魔の奴隷ではなく、罪も悪魔も治めるべき存在なのです。
「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである」(創世記4章7節)。
今日、悪魔と罪の奴隷から、神より少し低い地位に立ち返りませんか?
「息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません』」(ルカ15章21節)。
神様は、悔い改めて神に立ち帰る人を受け入れ、罪を赦し、神の子供として下さいます。
そして祈りましょう。
「自問自答」をやめて「自問神答」で生きて生きましょう。
「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう」(第二歴代誌7章14節)。
🧡【動画メッセージ】
「思い通りにいかない時の感謝」
https://youtu.be/zgVwigPM6ek

【中野駅路傍伝道駅 路傍伝道】(前半)
https://youtu.be/IP-KKEMBa5I

【路傍伝道ネットワーク 活動紹介】
https://youtu.be/es7hBtd_OdY

【新宿福興教会 オンライン主日礼拝】
https://youtu.be/cjurrCT8Xos (朝)
https://youtu.be/jaRSLglgd9U (夕方)
※明日は日曜日の礼拝の日です。万全の状態で礼拝ができるように備えていきましょう。

【四十代最後のメッセージ】(今日まで限定公開)
「私たちに与えられた救いと人生の目的」
https://youtu.be/g0MnAtSKtxM

「編集後記的メッセージ 『神に聴き、自分で決断する人生』」
今日は、一言メッセージで、祈りについて、「自問神問」と「自問自答」を対比としてお話をしました。編集後記では、もう少し掘り下げてみたいと思います。
人は神と交わりを必要とする存在として造られました。しかし、神との関係を切った途端、自分自身が神の代わりにならざろう得ませんでした。
自分の頭で考えるというプロセスはとても大切だと思います。
クリスチャンの中で、「神がこう言われたから、こうします」という方がおられます。
それは正しいように見えますが、失敗したり、出過ぎた行動を取って、人から責められ様なことになると、「神がこう言われたから、したまでです」と、神のせいにして、言い訳をする場合があります。
私は、祈ると共に、「自分でよく考えた末に決断しました」と言う言葉を信頼します。
それは、神の導きを受けると共に、自分の頭でよく考え、自分が選び取って決断したことですので、責めを負うようなことが起こっても、それを神のせいにしたり、言い訳をするようなことはありません。
16世紀の宗教改革者マルチン・ルーテルは、教えられて来たことに対して、神に祈りながら、自分の頭で考えた末に、「これはおかしい!」と感じて、宗教改革を断行しました。
ルーテルの「我ここに立つ!」という言葉の中には、神のせいにしたり、言い訳じみた言葉はありません。
牧師になられる方の中に、「牧師だけにはなりたくなかったが、神がやれと言われたから牧師になった!」と証をされる方がおられます。
立派そうに聞こえますが、いつまで経っても、嫌で牧師をやっているとしたら、何かがおかしいと感じます。
最初は、嫌だと思ったとしても、それを決断したのは自分です。そして、こんなに素晴らしい神に仕えることができているのに、うれしくないでしょうか。
ただ、「好きで牧師になった奴にロクな奴はいない」という暗黙の価値観があるのかも知れません。そして、「自分ではやりたくないのに、やっている」と聞くと、「あー、偉いですね。頭が下がります」と思ってもらえるのでしょう。
神に祈り、自分の頭で考え、そして、自らが決断をしたとしたら、そんなことにはならないのではないかと感じます。
しかし、「好きで牧師をやっています」と言っても誰もほめてはくれません。「だって好きでやっているんでしょ?牧師を好きでやられたって困りますよ」と思う人はいると思いますが、牧師をやっていて、牧師の働きが好きになれないとしたら、召されていないか、自分の肉の力でやっているかのどちらかではないかと感じます。
キリスト教界の中で言われる2つの不幸があります。
1つ目は、召されてもいないのに、勝手に牧師に志願して牧師になる人。自分も、その教会の信徒さんも苦労することになります。
2つ目は、召されているのに、献身して牧師にならない人です。
そういうことが起こらないようにと祈ります。
みなさん、何事も神に祈り、神に聴いてください。しかし、同時に、自分の頭でよく考え、自らで決断をして生きていってください。
神のせいにしたり、言い訳をしないで済む人生を歩めたら幸いですね。
素敵な週末をお過ごしください。
ログインしてコメントを確認・投稿する