
〈4/15(木)本日の一言メッセージ〉
「人生は、いつも今が最高!」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/22062 (写真入り記事)
私は、「あなたにとって、人生とは何ですか?」と聞かれたとしたら、「いつも今が最高です!」と言いたいと思います。
人生を区分することは簡単にはできませんが、振り返ってみると、一桁代の幼稚園・小学生時代、十代、二十代、三十代、四十代それぞれにまったく違う世界観、価値観、感覚を感じていると思います。
それは優劣ではなく違いです。いつのどの時も素晴らしいですし、違った楽しさがあるものです。
もし、小・中学生の時代に、三十代、四十代がどういうものなのかを知っていたら、きっと違う生き方をしていただろうと思います。
その頃の私は、「早く大人になりたい」と思いながら一生懸命に生きていました。その若さが懐かしいです。
合理主義とは無縁でした。今を懸命に生きていましたので、過去を振り返って悩んだり、未来を心配しませんでした。
しかし、子供の頃に大人がどういうものかわかっていたとしたら、無駄な時間の浪費をせず、自分の目標に関係する勉強をし、知識や経験を積み上げ、失敗を避け、合理的に生きただろうと思います
もしそんなことが可能だとしたら、大人びた子どもとなり、人生はつまらないものになってしまっただろうと思います。
26歳の時に伝道師になり、同じ年に、結婚をし、アメリカ留学をしました。
30歳で牧師になり、東京の新宿で開拓伝道をはじめました。
その後も神学勉強を続け、38歳の時に神学大学院から博士号を頂き、この頃から出前牧師の働きを本格的にスタートしました。
こう書くと、人生が順調に進んでいるように見えるかも知れませんが、紆余曲折の連続でした。ただ必死に神様を求め、神様にすがりつき、今日まで歩んでくることができました。
一桁代の頃、そして、十代の頃、自分が三十代になることもイメージができませんでした。死ぬ日が来るのは、遠い遠い未来のことだと考えていました。
二十歳の時に、人生を神様に捧げて献身しました。神学校の寄宿舎生活をはじめ、アメリカの留学生活を含め、牧師になる訓練を受け続けました。浦島太郎のように、この世の社会とかけ離れ、その年代のカラオケの歌を知りません。
三十代になり、牧師として教会の働きをスタートしましたので、二十代が勉強と下積み生活でしたが、小さいなりにもいきなり社長になったようで、とても苦労をしました。失敗もたくさんしました。
四十代になり、三十代での教訓が生かされ、やっと落ち着いて牧師の働きができるようになりました。ゆったりしていますが、同時に、全力で毎日生きています。静かに全力で回るコマのようです。
ところで、私の趣味の一つは登山です。今まで、何度も富士山に登って来ました(頂上まで登ったのは二度だけです)が、富士山に登る時は、五合目まで車で行きます。それから徒歩で、六合目、七合目、八合目、九合目、そして、頂上に上ります。
人生を生きてきて、それぞれの年代で見える景色が違うというのは、富士登山で登るにつれて見える景色が変わるのと似ています。
登山は、頂上にのぼることだけが目的ではありません。その途中のプロセスが楽しいですし、登頂した後には、必ず下山しなければなりません。下山も楽しいです。私はいつも、砂走を走るようにして下山しますが、これがやめられません。
人生を2つに分けるとしたら、その中間を頂上と考えると、後半は下山です。人生は、後半も楽しいのです。
山を登りながら、後ろを振り返ることがありますが、後悔するではなく、「あー、こんなにのぼって来たんだ!」と、うれしくなります。人生を振り返ることも、そうでありたいです。後悔しても、人生は元には戻れません。
もし、失敗をしたとしたら、反省し、教訓とすることで、未来に生かしていったらいいのです。
同じように、朝も素晴らしいです。昼も素晴らしいです。夜も素晴らしいです。
日曜日も、月曜日も、火曜日も、水曜日も、木曜日も、金曜日も、土曜日もみんな素晴らしいです。
昨日も、今日も、明日も素晴らしいです。
いつも素晴らしい、毎日最高と感じる秘訣は、神に祈り、神と直結し、神と共に歩むことです。
『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます』(マタイ28:20)。
【動画メッセージ】
「安住は成長の敵」
https://youtu.be/fYnRCySdg40
【大久保駅 路傍伝道(後半)】
https://youtu.be/0w8AQSvzFzQ

「ジャパン・ハーベスト(宣教団体)」の支援会々員を募集しています。お祈り、ご参加をよろしくお願いします。
https://japan-harvest.org
※おはようございます。今日も素晴らしい1日でありますようにお祈りをいたします。
意識をして神様と共に歩む生活をしていると心配は減り、反省しないという意味ではありませんが後悔がなくなっていくものです。朝起きて、昨日の後悔や明日に対しての心配がまったくないと言ったら嘘になりますが、それよりも、心は平安で満ち溢れて、今日1日に対する期待が自然に湧き上がってきます。しかしもし、神様と共に歩まないとしたら、それは自分が自分の重荷をすべて背負っていくようなものです。その実力もないのにです。だから、心配があって当然なのです。だからといって、神様と共に歩むというのは、自分の人生を放棄して操り人形のようになるということではありません。「人は神より少しだけ低く造られた」と聖書は語ります。全知全能の神様と相談し、神様に聴き、神様に導かれながら歩むことです。知らない道を当てずっぽうで運転するのと、ナビゲーションシステムに導かれながら運転するのとでは、安心感はまるで違いますし、確実に目的地に向かえます。私たちは、イエス様に導かれながら、天国に向かって今日も生きているのです。うきうきワクワクしないはずがありませんね。
今日は、これから路傍伝道ネットワークの協力をお願いするために教会訪問をする予定です。今から楽しみです。
ところで、昨日のニュースで中部地方の教会で新型コロナウイルスのクラスターが発生したと耳にしたのではないかと思います。緊張が走りました。
嵐の日のドライブの時にも、withコロナの時代は、嵐の中を運転しているようなものです。しかし、そんな時にもナビゲーションシステムはしっかり稼働しています。大切なことは、嵐の時には、窓を閉めること、慎重に運転をしなければなりません。同じように、コロナ対策をし、気をつけながら1日を歩んでください。嵐の中でも、しっかりとナビゲーションの導きを聞き漏らすことがないように、イエス様から目を離さないで歩んでください。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(ヘブル人への手紙12章2節)。
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