父方の話はちょっと置いて、母方のヒストリーに移ろうと思う。
母の在所は、浜松市天竜川町です。かつては�靆招艦妥賃雫怯�です。屋号を「おくや」と
言ってました。私が物心がついて遊びに行ったときには、織屋をしていました。ガチャガチャと音を立てて、絶えず織機が動いている音が、裏の工場から聞こえてきました。
ガチャマンと言って織機がガチャと言うと万札が稼げると言われた時代もあったようですが、それ程豊かな生活には見えませんでしたね。
母の姓は金原でしたが、金原姓と言うと金原明善翁が有名ですが、何処かで繋がってい
るのかは調べた範囲では判りません。明善翁は同じ和田村の隣の部落の生まれのようです
曽祖父の代から書いて行きます。曾祖父は金原重三郎で、嘉永五年(1853)十月五日生)です。その妻「りか」が安政5年生まれ(1860年)です。曾祖父の親の金原重次郎と「いさ」ですが、その二人の生年月日は文政ですから1820年頃です。
曽祖父金原重三郎は明治13年11月(1881)に敷地郡馬領家村の原野谷嘉平太の次女
「りか」と結婚。この当時のことは母の弟の叔父に聞いておけば良かったと反省。
推測するに、農家でも稲作農業が主体ではなかったかと思われます。綿や藍などの栽培をしていたか等確かめる術はありません。
祖父の福太郎は長男として明治19年9月(1888)に誕生。男4人女2人の兄弟でした。
祖父の兄弟の中で名前を母から聞いた覚えのあるのは三男の人だけです。6人兄妹のことも、母から聞いたかもしれないが、覚えていません。
祖父福太郎は、明治44年23歳の時に、上新屋の山下市平の次女「すえ」と結婚。大正9年重三郎隠居により家督相続。祖父の子供は四男六女を設けたが昭和17年1月妻すえ逝去
45歳でした。この当時は機織りの仕事を家業としており、奉公人も何人か使って24時間
工場を稼働させていたようです。妻逝去の時、福太郎は長女17歳、次女14歳でもあり幼子もおり、後妻を娶る。男の子は長男・次男・三男と育たなかったので、四男には赤い着物を着せて育てたと聞く。
私の母親が福太郎の次女です。大正7年生まれ。私の父と昭和15年10月結婚しました。
祖父福太郎の思い出
小学生の頃に母と一緒に、在所に行くと「おお来たか」「大きくなったな」とにこにこ
していた好々爺でした。当時60歳位でした。祖母の思い出はありませんが、私を懐の中
に包んで抱いてくれたと母から聞きました。祖父の育てた椿の木を分けて自宅に植えました
母も3つ年上の姉も、家業の機織り工場を手伝ったと言います。朝早く起こされて工場へ、一仕事終えてから朝食を食べて学校に出かける毎日だったようです。工場には同い年
で出稼ぎに来た北海道余市の女の子も居たそうです。
遠州の織物は、浜松市浜北区が綿の栽培などが江戸時代から行われ、藍玉や藍根などの
染料も栽培していました。人力式の機織りが農家の副業として広まり、織物業が定着して
いきました。豊田佐吉等の発明により、動力式織機が開発されると大正時代から生産効率が大きく上昇しました。
私が母親に連れられて橋羽に行った頃は、天竜川の駅から伸びる道が旧東海道との交差点まで行き、そこから東に折れてまた暫く歩くと、当時は未舗装の道路の埃が凄かった。
現在は152号線となり、舗装もされています。また、裏の田んぼに国道1号線が作られてその道路の両側には自動車デーラーが並んでいて、自動車街と呼ばれるほどだ。
この道路152号には面せずに、屋敷の門まで続く道が20mほど繋がっていました。奥に引っ込んでいたことから「おくや」という屋号を付けていましたね。祖父が椿の木を育てていたものを1本頂いて庭に植えたものが、毎年花を咲かせてくれています。
ログインしてコメントを確認・投稿する