三嶋神社が鎮座する三島山は、「森山・白幡山・大明神山」などと呼ばれ「森山」が
森町の語源と言われる。寛永三年(1626)年の「森と向天方地境争論」(旧野尻家文書)によると古来両村の都境が争われるようになり、村境が慶長五年の大水により、それまで三嶋山の西を流れていた太田川が、東側を流れるようになり、村境が川を境にして確定した。この森山より北を「森の上」、神社より南を「森下」と呼ぶが、室町前期応永年間から始まったという。「事神送り」が森の祭りの起源とされ、毎年11月遠州の祭りの掉尾を飾る祭りだ。この祭りは三嶋神社の祭典であり森町っ子の心の拠り所となっている。
戦国時代の元亀初年、森山の下にあった梅林院の宣翁全忠和尚は戦火を逃れるため駿河・清水(現在の静岡市清水区)に寺を移した。その後、梅林院は三州慈廣寺の末寺に下り三嶋神社とともに徳川勢力下に置かれた。享保の末年、梅林院は庵山下に移り、境内は山田家の屋敷繰り入れられた。
この三島山の下には,天正十五(1587)年、徳川家康から駿遠両国鋳物師惣大工職の朱印状を与えられた山田七郎左衛門が屋敷を構え、付近に岡野、松井などの小工と呼ばれる鋳物師が鋳造所を置く鋳物師街であった。また、近世森町村には「森の六軒衆(伝熊野修験の子孫)」と呼ばれる庄屋兼森市場座商人がおり、仲町は白幡方加藤八右衛門が森市場の上市を掌握し、本町の野尻太郎左衛門が下市の座主(天正五年森市場禁制願主)を勤めた。このほか、太田方太田文三郎・森山の出鈴木五兵衛・西脇の出安藤甲右衛門・同神谷清右衛門が代々世話役を勤任した。
大明神山の社殿は戦国期の兵火によって焼失した。その後慶長年間に社殿を再建したが、寛文元年の大火で再び炎上。寛文十二(1672)年に本殿を再建したことが棟札等の
記録から明らかである。また、屋根の葺き替えなど修理をしたことも修理棟札数枚に残されている。
平成8年、三島神社本殿を町指定文化財に定め、虹梁・木鼻・等に施こされた渦・若葉
文様等の彫刻は繊細で、江戸前期にみられる寺社建築彫刻にみられる意匠で、当時の職人等の記録も残されている。
森 町
森町教育員会
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