明治の終わり頃になると、製茶が盛んになり、製品の売買も業者間の直接取引ばかりでなく
仲介業者も生ずるようになり「才取り」と呼ばれたそれらの人々の活動が盛んとなりまし
た。また、家庭内の内職として「棒取り」等の仕事も増加していきました。
茶の製造も次第に機械化されるようになり、それまで茶籠で蒸していたのが、蒸し器が
作られるようになり、大正の初めには粗揉機が作られました。森町では野尻氏がいち早く
これを導入して、最初の試験には町長以下町の名士が羽織袴で盛装して、見守ったという
こうして発展してきた森の茶業も、やがて商取引の中心が静岡市内に移り、以降は袋詰め
茶の見本缶を担いだ「才取り」の人々が静岡との取引とを頻繁に往来したものです。
昭和の初めごろに、浪曲師広沢虎造が「森の石松」も演題でその名を挙げ、一躍関東節
の雄となり、森町へも度々来演していました。のの浪曲の枕詞に、森の茶の宣伝文句をを
いれる、現代で言えばコマーシャルソングとして、丸七製茶の島政雄氏が作詞して口演し
名声を博することとなりました。「旅行けば、駿河の國に茶の香り、娘やりたやお茶積み
の・・・・」(完)
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